京都塾講師の殺害事件について

先日京都で痛ましい事件が起こりました。今回の事件はなにか自分の身近な気がして少なからぬ衝撃を受けました。

京進という塾は京都ではかなりメジャーな塾で、自分の小学生・中学生時代も同級生が通っていました。ちょとした町なら京進があるくらいで、ウチの田舎にもありました。自分は高校卒業するまで塾に行ったことはないのだけど、自分の友だちが行っていた塾(校舎は違うけど)で事件が起きたことで、かなり自分に近い事件だという印象を受けた。

それと今現在、自分も塾講師やってますし受験学年を担当しているので、その意味でもショックです。どの職業にも職業倫理がある。職業ごとにある専門能力をコントロールする方法として職業倫理がある(例えば医者は医療行為という範囲で専門能力を使うことが求められる)。今回の事件では、講師の職業倫理として、一番やってはいけないことを容疑者はやってしまった。仕事だから何をしてもいい、儲けるためなら何をしてもいいということはなく、それらは職業倫理の範囲で仕事に励むことが求められる。

塾の業界が多くのアルバイト講師に頼っていることは事実。会社にもよるが、正社員はたぶん講師の5割もいない。おそらく多くても2、3割程度。そうはいっても正社員の方がアルバイトよりも教務力があるかというとそうとも限らず、アルバイトでも正社員より優秀な人はいるし、程度問題とはいえ職業倫理を持っている。その点で今回の事件は残念でならない。あたかもアルバイトだから一様に駄目ということになりかねないから。


このように今回の事件は個人的には、また塾講師としてはきわめて残念な事件なのだが、一研究者見習いとしていうと、容疑者のような人は潜在的にはそこらへんに普通にいる。だからこれも程度問題だけど、容疑者一人が「おかしいやつ」で「容疑者の心の闇」とか報道されているが、それは少しピントはずれだといわざるをえない。今回の容疑者が特別だとは全く思わない。つまり容疑者「個人の心理」の問題というよりも、容疑者のようなメンタリティを形成してしまった社会の問題だということだ。その意味で社会問題である以上は、容疑者と同じようなメンタリティの人物は多かれ少なかれ他にも存在する。

話の背景を少し遠回りで述べると、少子化が関係してくる。合計特殊出生率が73年頃から下がり始め、75年には2.0を切った。85年には1.76になり、89年には1.57ショックといわれた。同じく子供一人にかける教育費が増え、塾に通う子供が増えた。そこで子供は学校、およびその延長としての塾で過ごす時間が増えた。広い意味での学校化である。

同じく少子化は同年代の子供、例えば兄弟、近所の子供などと過ごす時間を減らすし、家では自分の部屋で過ごすようになる。そこで起こってくるのは自分の思い通りに行かない他者の存在が薄れてくるということである。つまり自分とその自分をサポートしてくれる親しか家にはいない。そして先ほど述べた広い意味での学校化で優等生であれば、さほど挫折感を味わうことなく成長する。広い意味での学校化の中で、勉強は自分さえがんばればできるようになる。友だちをはじめとする関係性で自己と他者の距離がうまく取れなくても、学校化の中では苦労しなくて済む。これが勉強のほかに何かやらなきゃいけないときには、たた勉強ができるだけじゃダメ。でも勉強が主な評価軸なら、勉強ができればよい。

そうした社会の中で増えてきたのは、自分の思いどおりにいかないこと(ノイズ)に対する免疫が極めて低い人物や、勉強という狭い範囲で得られた「全能感」を捨てきれずに、勉強以外の分野で他者に押し付ける人物などである。後者はちょっと前でいうストーカーにあたる。ちなみにストーカーは今では学校化の広がりとともに広がったが、かつては偏差値の高い大学に多かったといわれている。

要するに少子化して一人当たりの教育費が増え親に大切にされると、ちょっとしたことが耐えられずにすぐキレる人や、自分の全能感を満たしてくれるように他者に求める―その意味では他者に依存している―人が増えたということだ。さらに言い換えると、自分勝手なくせに他者に依存的な「お子様メンタリティ」の人が増えたということだろう。そしてこの「お子様メンタリティ」を持っている人は程度問題とはいえすぐ身の回りに存在している。

そして勉強はできるが行動が幼稚な人が増えていると。上記の文脈に照らして厳密にいうと、勉強という狭い世界に閉じこもりそこで他人より上手くいったがために、全能感を捨てきれず幼稚な行動を取るということだろう。

このように今回の事件の容疑者が特別なのではなく、そうした「お子様メンタリティ」を持った人は社会的に生み出されてきたと言える。少子化によって一人頭の教育費が増え、塾が広がったとともに「お子様メンタリティ」を持った人が増えた。そして塾の中で犯罪が起きた。塾によって生み出された人が塾で罪を犯すという意味で再帰的な事件である。