耐震強度偽装問題と証人喚問について

本日、耐震強度偽造問題をめぐって証人喚問が行われた。一連の問題については初期の段階から「構造問題」、すなわち部分だけの問題ではなく制度をめぐる構造的な問題だと思っている。したがって姉歯建築士でなくても偽造は起こりえただろう。

今回の事件について少し遠回りして述べてみる。社会が専門化して複雑になると、お互いに見通しづらい社会になってくる。そこではある専門知識のもと、ある前提から合理的に計算したとしても全体として合理的である保証は無く、前提では想定しなかったファクターのせいで問題が生じることがある。いわば社会の専門化は相互透明性を低下させ不確実性を増やし、ある専門知識は別の知識によってコントロールされることを難しくさせる。

社会システム論的に言うと、社会の専門分化にともなって、例えば経済システムなどのあるシステム(複雑性が縮減された部分)にとっては、政治システム・法システム・科学システムなどの他のシステムは環境(複雑性の高い部分)となる。そしていちいち専門家のやったことを確認するにはコストがかかるので、社会システムにおける「信頼」は複雑性を縮減する機能がある。言い換えれば信頼によって複雑性が縮減される結果、社会システムは上手くまわり、社会システムがきちんと回るということで信頼(という期待)は実現される。その意味で信頼は、信頼(という期待)によって実現される事実に負っており、事実性が信頼を自己成就させる。そして信頼が崩壊する時は、信頼してうまくいかなかったという事実が出てきた時である。

今回の事件では、それぞれのアクターはそれぞれの立場で経済合理性を追求した。しかし安全というファクターを加えた全体的な社会合理性は大きく損なう結果となってしまった。したがって、おのおののアクターは当然「自分は悪くない」と述べる。

もちろん個人的な責任、法人としての責任は取るべきだろうと思う。しかしながら今回のような問題は、制度的な失敗という構造問題の方が大きいだろう。個人が合理的に振舞った結果、全体としては失敗するという制度の劣位均衡に落ちいってしまった原因をも追究する必要がある。また信頼しても大丈夫という期待を広め、事実性を確立するためにも原因追求は必要となる。

そのためには今回のような証人喚問は一つの手段となるものであるが、本日の証人喚問にはがっかりした。質問者となる国会議員の質問力が低い(特に自民党の議員は酷い。自分が直接見ていた範囲では比較的民主党の馬渕澄夫議員と公明党高木陽介議員はまともだったが)。というのも、事実確認をしているのか、それとも意見を聞いているのか明確に区別されておらず曖昧で、なおかつその質問の曖昧さに感情的な非難が加わるため、ますますピントがぼけてしまっていた。そのような曖昧な質問では質問される側は逃げやすくなる。国民の代表であるならば、冷静に論理的に問題について問うことが上記に述べた原因追求にとって重要となる。証人喚問で感情的に非難することは短期的にはスカッとするが、長期的な原因解明にはマイナスであろう。

本日の証人喚問で一番気になったのは、国会議員の質問の曖昧さであった。