研究の背景

私の興味関心はソーシャル・キャピタル論、社会システム理論、情報社会論ですとプロフィールに書いている。ここまでこのブログには自分が行っている研究について書いてこなかった。理由は別にない。ただ書いてこなかった。今日は少し書いてみる。

私はソーシャル・キャピタルや地域社会、都市という対象にとりたてて興味関心があるわけではない。(正確には全く無いことはないし、興味もあるが、強烈な興味は無い)それらはより抽象的な「組織」や「ネットワーク」といったメゾレベルの現象、マクロ−ミクロのリンクを考えてみるための材料にすぎない。したがって私が本当に興味があるのは、そうしたメゾレベルの現象やマクロ−ミクロのリンクである。

学部では経済政策を計量的に実証分析していた。「金融政策の波及経路と日本経済パフォーマンス」「日本経済における資金移動と銀行貸出行動」など、マクロとして日本経済・社会を分析していた。その一方でマクロ経済を基礎付けるミクロ経済にせよ、個人は自らの効用を最大化すべく、完全情報のもと合理的に行動するという前提に違和感があった。もちろん、なにかしらの前提条件のもとで考察というものが進められることは認められることだが、もう少し前提条件を外すことはできないのだろうかと考えていた。学部3年の終わり頃だ。

そしてある前提から出発して「合理的」だとしてもその前提は何で担保されるのか、ある前提から「合理的」に考えた結果、実行可能性が下がってしまうとすればそれは本当に「合理的」なのか、そうした漠然とした違和感・疑問があった。例えば、政策研究としてもあまりに経済学的に綺麗な研究でも実行可能性が少ないのであれば、政策効果の期待値は下がってしまう。政策内容を経済学的に分析しても、政策は政治という具体的な生々しい権力争いの中のプロセスで決まる。

また統計を使って分析するということは、サンプリングから主に経済的にリプリゼント(代表/表象)をすることであるが、それはある種暴力的ではないか。それは統計で語りえぬものも存在するのではないか。その語りえぬものを統計というコーティングを掛け「日本」経済の名のもと覆いつくしてしまう。

その一方で、ケーススタディのように現場の語りを取り入れることは、どの程度代表性を担保しているのか。また「現場の語り」として最も語りえるのは研究者なのか、それ以上に現場の人ではないのか。結局「客観性というものはフィクションであり主観的な語り」だけが乱立することにはなりはしないのか、など疑問点が多く残った。そして今も残っている。

そこでマクロな統計分析に対する違和感、ミクロな分析に対するお気楽さ、ひらきなおりから距離をとろうとして、メゾレベルの現象、マクロ−ミクロのリンクに現象として興味を持った。そうした現象に、対象としてソーシャル・キャピタルや都市を分析することで、迫っていければと思っているが、うまくいくか自信はさほどない。自分の立ち位置は際どい立ち位置であるからだ。
 
近代化することで、ある前提条件のもと専門的な科学が生み出され、そうした科学が自然を克服し近代社会を作り上げたとしても、そうした専門的な科学が互いに不透明になりリスクとなるとしたらどうなるのか。また社会のなかに自分がいて、社会について分析すること(観察すること)、社会について分析する自分を分析すること(観察の観察)はどういうことなのか。そうしたことも少し頭の片隅におきつつ、ソーシャル・キャピタルについて考察していきたいと思う。

ps大学院に入るまで趣味でしか社会学をやってこなかった。でも政治学や経済学を学部で経験できたことは非常に良かった。そうでなければ、「あんなこともこんなこともやります」というゲリラ的な「社会・学」でなく、綺麗な「社会学・学」になっていた。