竹島からみるナショナリズム―保守とリベラル

島根県議会で「竹島の日」条例が可決確実となったことで、韓国のナショナリズムが盛り上がっている。(本当は一部の盛り上がりだったものをマスコミが抜いただけかもしれないが。)とにかく「竹島の日」条例を可決したのも、韓国軍が竹島(独島)の周りを囲って実効支配していて地元漁師が漁業ができないからだそうだ。さらに韓国側からすれば、旧日本軍が独島を占拠して竹島としたためで、元々は韓国(朝鮮)の領土である、と。そしてさらには、日本側の主張としてはサンフランシスコ講和条約で日本が解放された際に竹島は日本に含まれるらしい。

個人的には竹島(独島)は、結局のところ、明確にどちらの領土であると定めていなかったのではないかと思う。それを両者が綱引きで争っている感がある。そしてナショナリズムを煽るような局地的な勢力、例えば島根議会のエゴイズム、政治家の利権がある。もちろん島根の漁師は自分の生活がかかっているだろうことは予想がつく。

つまりここで言いたいのは、「自分の生活が大事」だという感覚は誰にもあるし、それを否定するつもりは無いとうこと。そして両国でのナショナリズムもまた否定すべきものではないということだ。自分はナショナリズムを専門に研究しているわけでないが、「くに」という言葉に「国(ナシオン)」という字を当てれば、ナショナリズムであり、「郷(パトリ)」という字を当てればパトリオティズムである。パトリオットというと「国のため」という感じがするが、もともとは「郷」のためである。そういた愛郷心、近代だと愛国心は誰にもある。まずはそれを認識する必要があるのだろう。

このように書くとナショナリズムを擁護しているという点で「保守」だとみなされそうだが、個人的にはいわゆる「保守」ではないと思っている。だが「保守」を地域独自の価値観や多様性を守るという定義にするなら、それに賛同するから自分は「保守」となる。しかし「保守」を大いなる存在に同化すること、そしてそれを守るということと定義するなら、自分は保守ではない。個人的な立場としては「伝統を守れ」「日本人の素晴らしさ」などという言説には恥ずかしさを覚える。そうした言説が「伝統の崩壊」「素晴らしくない日本人」という認識と表裏であるように感じるからだ。伝統は「ある」ものであって、「守る」ものではない。崩壊しつつあるから守る必要が出てくる。

同様にリベラルを大いなる存在からの解放的、大いなる存在への批判的精神とするなら、自分はリベラルである。しかし自らは安全なポジションに居つつ国家や企業を批判したり、どうせ誰にも届かないことを知っているがゆえに、「平和」「平等」といった耳ざわりの良いことを吹聴するのをリベラルとするなら、そんなリベラルはいらない。

地域独自の多様性、個々人の価値観を守るためにも、国家や企業といった権力に近づき内破するように批判することが必要なのだろう。その点で「保守」と「リベラル」は遠くない。



桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)

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昨日買った本。佐藤俊樹氏も近代化論→社会格差→歴史社会学か。
「理論できます、数量的実証できます、文献的実証もできます」と素晴らしいなぁ。


そしてこのテーマについて。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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