愛・地球博にかんして思うこと

愛・地球博開催まで1週間だそうだ。花博がかろうじて記憶の範囲だから、ちゃんと万博を目撃するのは今回が最初(で最後?)である。

正直なところ、盛り上がりに欠ける。マスメディアでさえ最近になって報道(宣伝)を始めた。地球を愛するという名前である以上、コンセプトは「環境」なのでしょうか。でも単純に環境のことを考えるなら、万博なんてやらない方がいい。そのままそっとしておいたほうが、人工物で覆いつくすよりもよっぽど良いにきまっている。

そして大阪万博以来25年ぶりに国家主導の(地方博でなく)万博だが、1970年と2005年では位置づけも変わってくる。70年では高度経済成長が陰りを見せ始めたところで、「未来」を展示することでもう一度経済成長をブーストさせる効果を狙ったものだ。しかし2005年現在では何の目的で万博なのか。いやむしろ目的なんか無いのかもしれない。目的は高度成長のときと変わっておらず、基本的な発想として「成長」であろう。愛・地球博の計画自体は何年も昔からなされており、その「成長」コンセプトが時期ラグをともなって現れたのが愛・地球博なのだろう。

したがって愛・地球博は「環境」「循環型社会」といった衣をまとっているとはいえ、70年の大阪万博から一貫して続く「未来」「成長」コンセプトをベースに持ち、その終わり・最終形態と考えられる。実際に愛・地球博で示されている「未来」はそれほど輝かしいものとは移らないし、一種の時代錯誤感を感じるのはその証拠である。(果たして出展企業は広告として費用対効果が出るのだろうか。)

そうするとインプリケーションとして考えられることは、現代に生きるものにとって輝かしい「未来」は無く、ただただ同じような日々(終わりなき日常)が続くということだ。そうした日々に何かアクセントをつけるために消費を行う、またその場限りの快を得るのだが、それさえも予期されるものとなり、結局同じような日々が続く。そのような日々(終わりなき日常)こそがリアルであって、万博が空虚に映るのは自分だけだろうか。仮に万博をリアルと思って行ったとしても、結局予期できないことさえ予期されるのだから、日常は続く。

さて少し話は変わり、万博に関して面白い本が出ています。吉見俊哉『万博幻想』です。まだ半分くらいしか読んでいませんが、860円という価格を考えると、絶対「買い」です。吉見氏は東大教授で文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の第1人者。個人的にはカルスタは好きではありません。社会に少なからぬ影響を与える政治・経済の論理を理解せず(政治・経済決定論を主張しているのではなく、政治・経済決定論を批判し、棄却するためにも理解が必要だと思う)、感情的(感傷的)に「文化」という語にかこつけてメディア、サブカルジェンダーポストコロニアルエスニシティなどを論じている研究が少なくないと感じるからです。そういう研究をしている人を見ていると、色んな意味で「余裕」のある人たちだなと感じます。

それはさておき、吉見氏の万博分析はきちんと万博という文化を通じて政治・経済・社会の矛盾、様々なアクターの衝突を見ているという点で、安直な文化研究ではなく、文化研究本来の目的を達しているように思われました。素晴らしい研究だと思いましたが、ただ「市民活動の重要性」という点に帰着させる、その方法が少し安易な感じを受けました。オルタナティブの提示についてももう少し論を経てから行った方が説得力も増します。

それでも『万博幻想』はおすすめです。あと同じ万博をテーマとした『博覧会の政治学』もおすすめです。

そんなところで、今後の愛・地球博がどういう展開をたどることか。観察しよう。

万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)

万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

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