企業倫理と意思決定の場としての市場

企業の社会的責任(CSR)に注目が集まっている。
社会的責任投資(SRI)にせよ、短期的に利益を追求するだけでなく/するというよりも、長期で見た場合に社会的に意義のある活動をしている企業に投資をしたほうがリターンが大きくなる可能性が高いということだ。

そもそも資本主義だから、なにをしてもよい、どんな手段で儲けても良いということにはならない。もちろんお金を儲けるということはそれで素晴らしいことだと思うし、その努力には敬意を持っている。個人的には資本主義を否定する立場ではない。

しかし企業価値の最大化、株主へのリターンの最大化を図るにしても企業倫理を守る必要がある。起業倫理を守ってこその市場(メカニズム)であると思う。具体的には環境に対して外部不経済を掛けても儲ければよいということにならないし、客をだまして儲けてもよいということではない。つまりところ倫理をある種の自己制御と考えれば、顧客に対して不利な情報だとしても自社の企業情報を開示して客をだますことに自らブレーキをかけるのが倫理だと思う。そしてそうした企業倫理をもった企業に融資が集まるのであれば、市場メカニズムと倫理が相反する(正直者が馬鹿をみる)ことも可能であろう。

いわゆる市場メカニズムの暴走、グローバリゼーションの暴走ということが具体的に何を指しているのか不明/個々によって定義が異なるのだが、市場という制度が機能するためには法制度、俗悪品を紛れ込ませないといった企業倫理といった前提が必要、すなわち市場を働かせるための広義の社会が必要だということには合意できる。市場の暴走をあえて具体的に考えてみれば、客をだます企業が市場から駆逐されたり、法的に違法とされているうちは安全なのだが、そうしたルールの逸脱が恒常化すると市場はみずから寄って立つ土俵である(法などを含む)社会を破壊してしまうという市場の自殺が起こる。

とはいえ、うまく機能すれば市場は効果的な意思決定機関であり、日々意思決定が行われている場である。もう1つ大きな意思決定機関として選挙がある。選挙の方は何年に一回しか行われないが、空間的な広がりにおいて膨大な意思決定機関であり、例えば全国選挙で40%の投票率でも約5000万人が意思決定を行なっている。そしてこの2つの意思決定機関をうまく働かせるために、社会を構成する我々は絶えずチェック・批判することが求められる。
その点において批判の意義があり、単に感情的な「市場の暴走」「ネオリベ」というレッテルを貼りつつ、自らは安全な位置に居ての批判は有効性を持たない。

結局、組織としての正しさを考えると、情報を素直に開示・受け止めること、サービスを行うに当たって相手の不利を招くような事態には自ら制御をかける倫理をもつことが重要である。かつ企業倫理の発揮を担保する制度が必要でもある。そこから社会に土俵を置きつつうまく機能する市場(または政治)というものが導けるのだろう。