いわゆるゆとり教育について

はてな移籍後初のオリジナル記事です。
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さて、まずは教育について書いてみます。
(ホントはある仕事(塾)のレジュメとしてで書いたものです。
したがって意図的に自助努力を強調しております。)


経済ゼロ成長時代へ
 55年からオイルショックの73年ごろまでを高度経済成長時代、そこからバブル崩壊後の93年ごろまでを中成長時代としますと、90年代半ば以降現在までゼロ成長時代に入ったといえます。別の観点から述べますと、目標がはっきりして経済成長を感じられた時代から、目標がはっきりせず教育にたいしてインセンティブ(動機付け)が得られにくくなったのだと思います。

 
ゆとり教育=学校ごとの格差拡大
 国としての共通目標がなくなった、または有名大学卒業後に大企業入社しても安全ではないといった、そうした状況では、とにかく学習内容を詰め込むような教育がうまくいかなくなってきたといえます。そこで文科省がいわゆる「ゆとり教育」を打ち出します。「ゆとり教育」とは学習内容を削減することが主眼ではなく、削減により空いた時間を使って個々人が自分のニーズにそって学習することです。多様化した個々人の長所を伸ばそうというものです。例えば、勉強は得意でないがスポーツが得意な子は、運動能力を伸ばしていく、音楽に秀でた子は音楽の能力を伸ばすといったことです。
 しかしながらゆとり教育にともなって問題になってきているのは、やる気の無い子の学力が低下していることが挙げられます。一方、やる気のある子は学習内容削減後も成績は変わっていません。つまりスポーツや音楽などにゆとりの時間を使う一部の子を除いて、多くの子供は、ゆとりの時間を学習に使った場合には学力は維持し、空いた時間で何もしなかった場合には学力が低下する可能性が高いということです。
 では空いた時間を有効に使えなかった場合、問題は生徒のやる気もさることながら、教員のほうにあるように思われます。すなわちゆとりの時間で真に問われているのは、教員の(学校ごとの)能力であるということです。実際、ゆとり教育化で学習内容を減らさなかった私立と内容を減らした公立の格差が拡大したということもたしかにありますが、それよりも公立間で(または教室間で)担当する教員によって格差が生まれているように思われます。


リスク社会化
 さて、先ほど述べた格差について、リスク社会化という別の観点から考えてみます。リスク社会化とは簡単にいえば「何が起こるかわからない」社会になったということです。例えば絶対大丈夫だと思われていた企業が倒産したり、たまたま動機不明の犯罪にまきこまれたりすることなどがあります。
経済が発展し成長が止まった社会はおしなべてリスク社会になります。同時に毎日が同じことの繰り返しのようになります。そうすると「勉強する」ことが何につながるのかが不明瞭となり、きわめて勉強にたいして動機付けを得にくくなります。
しかし私は「先行きがどうなるかわからない」からこそ、勉強することがこれまで以上に重要になってきたのだと思います。かつてなら安定した生活をつかむために「学歴」が必要とされ、そのために勉強を(多くの場合大学入学まで)しました。一方現在では不安定な世の中だからこそ、リスクを処理するだけの情報処理能力や多くの情報をもとに意思決定するための情報編集力が必要となります。「学歴」を手に入れることよりもよりよく生活するための「学力」を絶えず更新していかねばなりません。実際、資格取得に励む大学生や専門大学院に通う社会人が増えています。


まとめ
これまでをまとめますと、経済成長が止まりリスク社会化した今では、モチベーションをもった(やる気のある)人はゆとり教育でも学歴をつけ、それを生かして学力(=情報処理編集力)を蓄え、リスクに対処していくことになります。一方、「勉強してもしょうがない、どうなるかわからない」といった人はゆとり教育で学歴をえられないのみならず、肝心の学力(=情報処理編集力)を得られず、重要な意思決定で誤りを犯す可能性が高くなるとおもいます。