勝ち負け

「勝ち組」、「負け組み」をよく聞くようになった。私はこの言葉を聞くたびに3つの疑問が残る。

まずなぜそんなに「勝ち負け」に興味があるのかという疑問点。「勝ち負け」で分けるなら、ごく少数の勝ち組と圧倒的多くの負け組になることは当然である。そうした状態で誰が、なぜ、「勝ち負け」に興味をいだくのかというと、自分こそは勝ち組に是が非でも入るのだという悲壮感あふれる決意をもった若者層が興味をいだく可能性があり、またこれまでのキャリアなどから自分が勝ち組に入れないことを薄々気が付きつつも、勝ち組がどういった人たちでどういった生活をしているのか興味のある壮年層やそうした夫に生活を依存している妻などだろうと思う。

そこを踏まえたうえで、では勝ち組は果たして「幸せ」なのかという疑問も残る。一概に絶対値として「幸せ」かどうかを考えることは不可能であるので、相対的な話として勝ち組は周囲から思われているほど「幸せ」なのかを考えてみる。答えとしては「思われているほど幸せではない」と思う。その理由を以下探ってみる。単純に年収の大小で見るなら、勝ち組は年収が多い。ただもう少し考えてみると、年収が多いということは労働時間もそれなりに多くなりがちであり、その分仕事以外に費やす時間は減少していく。そうなると、お金を稼ぐために働いているのか、無理に働かされている分必要以上のお金をもらっているのかわからなくなるのではないか。そうすると年収は多いが、自由に使える時間も少なくなりがちな勝ち組は一概に幸せかどうかを判断することは難しい。

では最後の疑問として、必ずしも「幸せ」であるとは限らない勝ち組を突き動かすものは何だろうか。それは勝ち組から負け組に落ちたくないというただそれ一点であるように思う。勝ち組で居続けるのもお金は貰える一方疲れるが、何より負け組にはなりたくないということだ。そうすると「勝ち負け」は誰を幸せにしたのだろうか。