自分の将来のこと

自分でいうのもおかしなことなんですが、この春休みは自分が一番成長した2ヶ月だったと思います。自分の中では結構別人です。人がどう判断するかは別として。やっぱり自分の将来・人生の一部を決める大事な時期でしたからね。「俺って何だ?」「自分の将来は?」もう、ものすごく考えました。そして考えている間は外部とは遮断してましたね。そして本当にいろんなこと考えて、そして悟りを開いたというか、決断しました。覚悟を決めました。

2月の頭はまだ就職しようか大学院に行こうか迷っていました。ジャーナリストになろうか学者になろうかと。そしてマスコミに入って3年から5年地方で、警察周りするよりは大学院に行こうと。でも一番大きかったのは、就職試験で受付にスーツ着て並んできたときに感じたんです。なんと言ったらいいか、ようするに「自分という存在が消されるような圧力」といいましょうか。みんな同じ格好で、組織の一部という感じです。そしてその組織という大きな存在の前には個々の性格や個性が無に等しくなる。そういう圧力を感じましたね。それを受け入れるのが社会人になる・社会化されるということなのでしょうが、僕はそれを拒否した。自分を持っていたかった・自分でいたかったから。

それが大学院に行こうと思った原因の1つ。あとは「大学時代にきちんと勉強した証として修士号が欲しかった」という理由もあります。今の大学は入学さえすれば卒業できますから、例えば「慶應卒」という肩書きが何を証明しているのかというと「大学入学までにきちんと勉強しましたね」ということで、「大学時代に勉強しましたね」ということではないです。ですから、大学入学以後のみを比べると有名大学のほうが無名大学より優秀かというとそうとも限らない。

それで就職活動時に感じたのは、きちんと勉強した慶應総合政策よりも勉強していない慶應経済の方が、慶應経済よりも東大経済の方が就職戦線では市場価値があるということ。企業は大して研究内容とか見てないですからね。もっというと人事も自分が学生時代に勉強してない場合が多いから、研究の優劣について判断できないわけですね。僕からすれば「お前、そんなんでよう勉強したって言えるな」って分かっても、企業からすれば総合政策よりも経済のほうが、同じ「経済勉強しました」といっても経済学部のほうが出来るだろうと。あとは下手に勉強していると、人事と話が合わないのも感じましたね。「勉強も遊びの1つですよ」なんていっても、ポカーンとしてましたからね。ですから正直企業に魅力を感じなかった。

そんなことで大学院にいくには自分で学費も生活費も全て稼いで行くことになるんですが、そのことに対して覚悟を決めれたことが大きいですね。ウチは精神的には親から・子から独立してましたから、経済的に独立してしまえばもう完全に独立しますからね。やっぱり院にいってまで親に金を出してもらうのは美しくないですからね。人として。生き方として。独立の覚悟ができましたね。

あと覚悟といえば、僕は専攻は社会学で大学院に行きますから、それってすなわち学者になるということです。経済で院にいくならシンクタンクに就職という道もありますけど、社会学はもう大学教員しかないですから。そこの覚悟ができるかどうか。学者としてやっていく覚悟ができるかどうか。学者も簡単な職業じゃないですから。それで考えて「自分はやっていける」と。

そこまで覚悟すると、もう晴れ晴れしましたね。学者としてやっていく踏ん切りをつけるのに就職活動は役に役にたちました。短いにせよ就職活動をしたことで「就職したらもう勉強する時間がないな」と感じて、「風邪ひいて健康のありがたさをしる」じゃないですけど、勉強ができなくなることが身に迫ってやっと「やっぱり俺勉強が好きだな」と認識できました。もちろんただ好きというレベルだったら学者になれるかわからないですけど、僕は気がついたら本読んでたり、こうして書いたり。研究職の適性があるんでしょうね。まわりからもそう言われますし。

あと、自分でいうのもおかしいですけど「小さい頃から勉強は出来ましたね。勝手に。」僕は高校卒業まで予備校・塾に行ったことが無かったんです。どうしてたかというと参考書とか買ってきて自分で勉強してました。独学です。それでも小学校の高学年から中・高とずーっとトップクラスで。塾に行こうと思いませんでしたね。高校卒業して初めて予備校行って「前から塾に行っておけばよかったな」と後悔しましたけど。

でも独学の技術は大学は行ってから役にたちました。周りがどうして勉強したらいいのか分からない一方、僕は自分で勝手にやりますから。それでもやっぱり他の才能だったらよかったのにって思ったことは何回かあります。サッカーとか野球の才能だったらよかったのにとか。モテただろなと(笑)。勉強できてもね。大してモテないですからね。モテないこともないんですけど。「勉強教えて」と仲良くなり・・・って俺は何を書いてるんだ。まぁ、サッカーほどはモテないと。

さて話を元にもどして、まじめに。小さい頃からのなりたかった職業を振り返ってみると、小学卒業時は建築家、中学卒業時は医者、高校卒業時は弁護士、そして今は学者。小さい頃から何らかのプロフェッショナル・職人として生きていきたいというのがありました。それで今、学問のプロになろうと。

学問や知というのはある意味「闘いの歴史」です。コペルニクスガリレオは天動説に命がけで挑んだ。ニュートンアインシュタインの物理学は自然に対する闘い。社会科学で政治学は国家に対する闘い、経済学は貧困に対する闘い、僕の専攻の社会学は常識・通年に対する闘い。例えば、「母性本能」という言葉があるが、社会学をやっているひとからすれば母性は「本能」ではなく「文化的構築物」。子供を産んで育てるのは継母であったりと、子供を生んだ人と育てる人が違う時代もあった。近代化の結果職住分離し子供を育てるのが母親なことが多くなった。逆に女に育てさせるために「母性」が「本能」になった。だから子供を育てない母親もいて当然。よく訓練された母親がこどもを上手く育てることが出来る。こうして社会の常識・通年に挑んで打ち破るのが社会学

そうして学問という「闘いの歴史」に身を捧げた先人たち―歴史に名が残ろうが残らまいが―がいたからこそ、我々は今日の生活を享受できる。学問は生活を作っていくし、また問題があれば改善させようとする。でも問題が改善したり、社会の常識が変わる頃には、その人は年老いていたり生きていないかもしれない。ヘーゲルの言葉に「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」というものがある。偉大な人の業績が認められたり、すぐれた考えが社会的に認知される時というのは、その人にとっての晩年である、という意味だ。僕も知という「闘いの歴史」に微力ながら参加できることを嬉しく思う。また今さらながら「勉強しなさい」と言わなかった親には感謝。