崇高なるものとの自己同一化―国家、会社、愛

さきほど公共性について書きましたが、今回はギリシャ的公共性を書きます。

ギリシャ的公共性とは崇高な大いなるものと同化することで成立すると書きました。このギリシャ的公共性の代表例として、国家を挙げることができます。小林某の「ゴーマニズム宣言」という漫画が話題になっています。また「新しい教科書を作る会」の活動もTVなどで取り上げられています。これらはともに「自己をすばらしい日本という国と同一化・シンクロし、そのすばらしき日本を守らねばならない。それが公(おおやけ)である。」ということを言っています。ここでは大いなる外的な物にシンクロすることにより自己(内的存在)もそれとパラレルにすばらしいものになる、という仕組みがあります。

また有名大学を卒業し、有名大企業に就職することによって(大いなるものと同一化することにより)、なにか自分がすばらしい存在になったかのように感じることも同じ原理です。さらに恋愛(愛)もおなじものと考えています。恋愛という絶対善の存在を作り上げ、恋愛している=その絶対善とのシンクロにより自分がすばらしくなったように感じる、ということになるでしょう。尤も恋愛に関して個人的な考えは、恋愛ってそこまですばらしいものではなくて、普通の日常の1場面と考えています。それで、恋愛がメディアにより絶対善の存在に祭り上げられることにより、「別にそこまで相手のこと好きじゃないけど、恋人がいないのは嫌だから付き合っている」という人たちが生み出されることになります。

さて問題なのはこういった国家、会社、恋愛といった大いなるものとの同一化により自分がすばらしくなったように感じることと、ありのままの自分がすばらしくなることとはまったく別のことです。いくら大企業に就職して「○○企業●●部部長」という肩書きを得て、それが自分の魅力であるかのようになっても、ありのままの自分は魅力があるとは限らない。そこで定年退職をしたら人間関係が無く、退職金の1部を持っていかれて離婚ということになる。

以上から言いたいのは、大いなるものとの同一化を通じて自分をかさ上げすることではなく、徹底的に自分のダメなところと向き合い、そこから自分自身が成長することが重要なのだと考えます。例えば、国家、会社、愛をすばらしいものとして祭り上げ、それを守り、同一化する。このことはむしろ国家、会社、愛が逆説的にすばらしくないといっているようなものです。かつて政治思想家のハンナ・アーレントが言ったことは「伝統を守れとことさらに主張するのは真の伝統主義者でない。本当の伝統は守れと言わなくても、そこにあるのだ」ということです。つまり本当にすばらしいのならば、わざわざ「すばらしい」といわなくても、すばらしさが自明のものとしてそこに存在するのです。本当にすばらしい人は、ことさら「すばらしい肩書き」を強調したりしないでしょう。