公共性と共同性

今日は公共性と共同性ということについて書きたいと思います。この2つの概念は似て非なるものです。

まず公共性ということですが、簡単にいえば「みんなのもの」ですが、さらにいうとその「みんなのもの」を共有するのは1人1人違う人間だからお互いに不快にならぬよう尊重しあい共生すること、空間と言えます。もっと言うと、ここで書いた公共の概念は「近代社会の公共」です。それまでの公共はギリシャ社会に端を発し、都市国家といった崇高なものとの同一化を通じて公共概念が発生します。

次に共同性ですが、これもある意味「みんなのもの」ですが、ここで「みんなのもの」が達成されるのは「わたしとあなたが同じ」、「相互に同一性を獲得」しているからです。

つまり公共性では「1人1人違うこと」が重要なのに対して、共同性では「みんな同じ、似たようなもの」という意識が重要になってきます。実際にこの2つの概念に関して考えてみましょう。田舎では、人口がすくない上に、人口流動性も低いですから、お互いに気心も知れています。「〜さん、○○スーパーで働いてるみたい」といった情報もすぐに共有されます。したがって田舎は共同性が低い。裏を返すと同調圧力が非常に高いですから、変なこと目立つことをしようものなら「出る杭は打たれる」の言葉どおりになります。都会ではどうかというと、田舎の逆に人口は多い上に出入りが激しいですからこの共同性は田舎に比べ低くならざるをえない。

次に公共性について実際の社会で考えます。この公共性は「1人1人違う人間である」という意識をベースにしていますから、上記のような性質を持つの田舎では成り立ちにくい。では都会ではこの公共性が成り立っているのかといえば、それも怪しいのです。というのも、例えばマンションのお隣さんは誰か分からないけど、でも同じ日本人だしさ、といった具合になんとなく共同性があるのではないか。もしくは「わたしはあなたたちとは違う」ことは意識されていても、「だからお互いに迷惑にならぬよう」にするまではいっていないのではないでしょうか。

したがって、「仲間にはすごくやさしいけれども、他人には冷たい」ことや「べつに迷惑かけてないから何してもいいじゃん」ということは、ごくちいさな共同性は成り立っているが、公共性が成り立っていないため、共同性と公共性の間に剥離が生じている状況であるといえます。つまり、公共性と共同性の間に空いたスペースが「町の中や電車の中でも、仲間以外は皆風景」ということになるのだと思います。