外的なるもの、内的なるもの

最近おもうことは、外的なるものが肥大化しているのかなということです。といってもわかりづらいので、具体例をあげます。例えば、クリスマス。クリスマスが近づくとなんだか恋人がいないことが恥ずべきことであるかのようになっているようです。クリスマスと言う外的要因に自分という内面が影響をうけるのです。本来クリスマスが喜ばしいかどうかなんて、個人がどう思うかによるはず。祝いたきゃ祝えばいいし、祝いたくないなら祝う必要のないことです。

この外的要因の肥大化ということを別の言葉でいうと、「自明性の圧力」ということもできるでしょう。クリスマスを恋人と祝うことが自明であるかのようになってしまった結果、マイノリティになるのはイヤだからその自明性にしたがう。そうして「自明性の圧力」はどんどん肥大化する。おなじことがワールドカップにもいえるでしょう。本来サッカーに興味を抱く、抱かないは個人の内面の問題のはず。しかし「応援して当然」という「自明性」は「マイノリティになるのはイヤだから応援しようかな」という人を吸収し、ますます「自明」となる。

そうした外的なるものの肥大化、「自明性の圧力」にずいぶんと内的なるもの、個人の内面が脅かされているようです。その原因として TVを中心としたメディアの発達が挙げられます。したがって、「外的要因の肥大化」に対抗することは、メディアにどう対処するのか、すなわちメディアリテラシーを身に付けるかに大きく負っていることになります。

メディアリテラシ−を考える際に重要なことは、メディアから正しい情報を読み取ろうということではなく、メディアから自分なりに、自分と言うフィルターを通じて情報を読み取ることだろうと思います。100人いたら100人の読み取り方があってしかるべきで、重要な情報とはその人によって違って当然なのです。ですから、メディアから唯一の正しい情報を読み取ろうとする態度というのは、思考停止に陥り「自明性の圧力」に屈することと、「右向け右」という点では全く同じでしょう。

以上から考えると、クリスマスを祝うとしても「自明性の圧力」に屈するのではなく、その人なりに文脈があって祝うのが良いのではないでしょうか。私自身はやはりその人なりの記念日があって、そういった日を大切にする方が素敵かなと思います。