ファッション

前回が堅い話だったので、今日はすこし柔らかい話を。今日はファッションについて。私はもちろんファッションの専門家ではないので、「こういう服はなになにを表現していて・・・」というくだんのことは分かりません。違う観点から話をします。

ファッションとは何かということですが、ここでは着ている服や履いている靴、および髪型を考えます。数年前、渋谷昌三著『外見だけで人を判断する技術』という本がけっこう売れました。それだけ多くの人が人の中身と外見の関係に興味があるのだと思います。実際に「人は外見に依らないねぇ」なんていろんな場面で言われてるでしょう。

私自身は人の外見と中身に関してそれなりの相関があるのではないかと思っています。したがって、ファッションに気をつかうべきという立場です。外見と中身にかんして、人は初対面の時に無意識の内に照合しているようです。つまり、「昔付き合ってきた中でこういう外見の人にはこういう性格が多かった。したがって新しく出会った人はかくかくの性格なのだろう。」と過去のデータとの照合を行なっているのです。例えば、髪が茶色でカジュアルな服ならば活発な人ではないだろうか、髪が黒でフォーマルな服装なら誠実な人そうだとか。こういう照合を短い間に行い、またそのときの第一印象は結構残るみたいです。心理学では人の心を調べるかわりに、行動を調べます。行動が心を表していると考えるからです。ファッションは何かを着たりする行動であると考えるなら、ファッションが内面を映し出していてもおかしくは無いわけです。つまりある程度外見と内面との間には相関関係があるのではないでしょうか。

では違う角度からファッションを考えてみます。先ほど、ファッションが内面を映すと書きましたが、内面を映すという点では「言葉遣い」も一種のファッションといえるかもしれません。モードの分野(ファッションを学問的に考える分野)では「ファッションとしての知」という考え方があります。つまり、その人の持つ知(内面)が言葉遣いやボキャブラリー、何気ない会話、果ては雰囲気に表れるということです。そう考えると、「知」というファッションは服などのファッションに比べ、多種多様であり、貴賎の激しいものです。また身に付けるのに非常に時間がかかります。服という点でファッショナブルにしようと思えば、綺麗な服を買えばいい。お金さえあれば時間や努力はたいして要らない。といっても、服に着られるという状況もありえます。服装はすごい綺麗だが、ボキャブラリーが貧困である場合です。そういう場合はある意味一番恥ずかしい。高い陶器の器に入ったカップラーメンみたいですね。カップラーメンはあのカップに入ってるからいいんです。あれが高い器だったら変な気持ちになるでしょう。それで、話を元に戻して、知をファッションとしてとらえるとまるで香水みたいなものだといえるでしょう。直接目には見えないですし、遠くはなれていると匂わないように、近くで話をしないとファッションとしての知は感じないですから。またファッションとしての知が香水みたいという理由はなによりアピールしすぎると失敗するということです。過ぎたるは及ばざるが如し。香水は自分では匂わないくらいがちょうどいいように、ファッションとしての知もアピールしすぎるとただ嫌味なだけですから。すでに自分がアピールしなくても言葉の端々や言葉遣い、雰囲気になってでているといってよいでしょう。

最後に個人的には服装のほうのファッションは嫌いではなく、むしろ好きなほうです。実情を知っている人からは「お前たいした服着てないやろ」っていわれそうですが、本来は興味あるんです。ただ何しろ1人暮らしでお金がないだけで。大体生活費とあと書籍費に消えますからね。服まで回らないのです。そういう意味ではプー太郎時代(予備校時代)が一番いいもの着てました。寮に入ってたので、たいして使うことないですから。気晴らしに四条烏丸あたりのデパートによく行ってました。最後に本来はファッション好きであることを強調して終わりにします。