自発的独学と与えられた勉強

僕は与えられた勉強が嫌いです。ですから、あまり授業とかも聞きません。テスト前、その科目のテスト勉強もあまりしません。結果として、いわゆる学校の成績は人並みだと思います。ずば抜けて成績がいいわけではないです。

でも自分で自発的にする勉強は好きです。かなり時間とお金をかけていると思います。授業中も自分で買ってきた本を読んでいます。その方が実力がつくからです。長期的に考えると、社会に出てから役に立つのは、そうやって自発的に継続して身に付けたものだと思います。目先の成績はやはり目先の就職の時にしか使えません。そういう成績とか大学名のような肩書きといった外面的なことは就職の時にさえ、使えないかもしれない。

まして日本から出て勝負するとき、大学名なんぞなんぼのもんでもありません。実力が全てです。でも、日本にいるときは、オバチャンに「すごいね」っていってもらえるでしょう。とにかく、外国の人にとっては、東大だろうが慶應だろうがたいした差を感じないでしょう。「日本の大学は?」と聞かれて、「東京大学」って答えるのは、僕らが「中国の大学は?」と聞かれて「北京大学」とこたえるのと一緒です。つまり、みんな知ってる首都名です。

話は少し変わりますが、昨日センター速報をしてました。今では、あの数字の差になんの意味があるのかと思います。いったん大学に入ってがんばって勉強している人にとっては、ショーモナイ差です。大学入試は通過点です。でもそこから手を緩める人があとを絶ちません。外国では大学に入ってから一生懸命勉強するそうです。

日本では大学ではなく、会社企業が大学入試後の主な教育機関でした。だから、大学がクサっていても、外国と張り合っていけた。今や、企業はいちいち新入社員を教育してる余裕はありません。また年功序列というシステムが崩壊しつつある今、新入社員教育という会社にとっての「投資」は極めて不確定なリスクの高い「投資」になりつつあります。

以上から考えると、大学時代自己研鑽して、即戦力として使えるよう自らを「パッケージ化」して労働力市場に売り出す必要があるのだと思います。では自己研鑽とは?それは勉強もその1つですが、料理とかの技術もそうです。僕は勉強を選びました。

今や、社会が「成熟化」し「多様化」の時代といわれています。人はたいてい基本的なモノを手に入れることができました。そんななかでは他人との差が重要になってきます。例えばブランドです。差異化の極限化されたものが「オタク」です。そんな多様化された時代では、もう上からみんなに与えられたものをこなすだけでは時代と合いません。「他の人がやってるから」は行動原理にはもうなりえないのです。自らが自分で研鑚していく必要があります。昔から勉強といえば独学であった僕にとっては、「イイ時代」になったものです。