もしパートナーに異常児が宿ったら

もし自分のパートナーのお腹の中に、「異常児(ダウン症)」の子が宿ったことがわかったら、私は自分の彼女に中絶してもらう*1。その理由は次の通りである。

生まれてきたその子はほぼ確実に現実問題として「健常者に比べて不便な生活」を送るであろうことが容易に予想されるからである。たしかに以下のような考え、意見があることは事実である。

不利とは特定の個人にとり、損傷または能力不全によりもたらされる不利益であって、その個人の年齢、性、社会的ならびに文化的要素に応じ正常とされる役割の遂行を制限または妨げられるもの。不利とは障害者と彼らをとりまく環境との関係から生じるのである。                 (「障害者に関する世界行動計画」1982年)

つまりここから導き出せる考えは「障害がなぜ不便なのかといえば、障害者をとりまく環境が障害者にとって十分でないからだ。言い換えれば、段差を無くすなどといった、障害者にとっての環境が十分であるならば、障害を不便とは感じなくなる。」というものだ。しかし、私が思うにこの意見は「考え方」としては正しいのだが、実際の現実としてこういった障害者にとっての環境が整備されているのかといえばそうではない。例えば、階段だけのエレベーターの無い駅などの建築物。障害を持つ人が通うことの出来る、盲学校のような障害者にとっての教育施設の少なさ。こういった障害者にとって決して便利とはいえない環境は現実世界にはまだまだたくさん存在する。障害をもつ子供をこういった世界に送り出すことは、どんなに障害者擁護の理想論が叫ばれようが、やはり親としては出来ることならしたくはない。かわいい自分の子供が苦しんでいる姿は、子供がかわいければかわいいほど、親としては見たくは無いのだ

要するに、「障害者は幸か不幸かを他人が言及すべきでない」と論じる前提として、障害者が不便を感じない環境が整備されていることがまず必要だ。障害者にとって十分な環境も無いのに「障害者は不幸だと論じることは間違いである」とする説は机上の空論であって、理想論である。障害者にとっての環境―物理的にも精神的にも―が十分に整備されていない以上、現実には障害をもってうまれてきた子供は「不幸」になる可能性が健常者に比べて高いことは否定できない。

以上の私の考え、理由によって赤ちゃんに異常が認められた場合には中絶することを選択する。

*1:今現在はそんな簡単に言い切れないと思っている