コミュニケーションについて

まずそもそもコミュニケーションとはなんだろうか?当然のことながらコミュニケーションが成立するためには、1人だけでは駄目である。2人以上であることが必要だ。つまり2人以上の人間が互いに相手の存在をそこに認め、そこで発生するメッセージの交換のプロセスがコミュニケーションである。そしてメッセージの受け渡しが行なわれる際、重要なのは相手がこちらに対して言ったり、身振りで示したりするといった行為に対して、こちらがどういった意味をあたえていくのかという点だ。相手が意図した意味とこちらが相手の行為に対して付与した意味が異なれば、そこではコミュニケーションが成立するにはしたが狙い通りのコミュニケーションは成立しなかったことになる。いわゆる誤解である。また相手の行為といっても、そこには意識的な行為もあれば無意識的行為も存在するのであるが、これといった意図を持たない無意識的行為であったとしても、それを受け取った人物(認識者)が意味を与えれば、コミュニケーションとなるのである。例えば、服装である。服装というものはそれ自体では何もものを言わない。しかし人は往々にして他人の着ている服装を見て何かを感じ取るものである。本当はずいぶん大人しい人がただ派手な服を着ているだけで、「あぁ、あのひとは派手な性格の人なのだな。」とその人の本当の性格を知らない人はつい思ってしまうだろう。また会社で働いている時でも、もしスーツを着てネクタイをしていなかったら、「あいは仕事をやる気が無い奴だ。」と本人はそのつもりが無くても思われてしまうのである。つまり人間がなんらかの行動をしてそこに何らかの意味が与えられればコミュニケーションは成立してしまうのだ。このことをベイトソンは「You can not not communicate(人はコミュニケートしないわけにはいかない)」と述べている。またこのことを自然科学的に言い直すならば、「観察者は観察系の外部に立っているのではなく、観察系の内部にいる」、ということである。M・マクルーハンはこのことについて、『メディア論』の中で「全ての人間が教育者になる。」と述べている。

次に社会との関係でコミュニケーションを見てみよう。相手方の行為に対してこちら側(認識者)が意味を付与するという点で1つの例としてあげることができるものとして、テレビ・新聞といったマス・メディアがある。我々は現在の社会で生きていく限りマス・メディアと接しない日はない、と言ってよい。それくらいにマス・メディアに囲まれて生きているのである。逆にいえばマス・メディアがあるかぎりコミュニケーションは日々行なわれている。

ここではマス・メディアの代表格であるテレビについて考えてみたい。テレビには文字や映像や音楽が映し出されるのだが、そこに映されているもの、例えばニュース、ドキュメンタリー番組は真実なのだろうか?また映し出されている人物ははたしてその人物の真実を映し出しているのだろうか?先ずは最初の疑問に答えてみたい。私たちの多くがほぼ毎日テレビを見ているが、「はたしてこれは本当なのだろうか」と感じることがある。たしかにテレビ番組のなかには、いわゆる「やらせ」と呼ばれるものが存在することは確かである。だが、しかし「やらせ」の通用しない報道番組の場合はどうか?そこに映し出されているものはたしかに実際に起こった事実が映し出されている。では私たちはそれをまるまる信じていいのかというと、答えは「No」であろう。なぜそうなるのかというと、そこに映されている映像が事実だからといって、それがその場で起こったことの全てを映し出しているとは限らないからだ。例えば、つい先日2001年の成人式が行なわれ、そこでの新成人の暴挙を各テレビ局とも「待ってました。」といわんばかりの勢いで一斉に報道した。テレビ画面の中では、式の最中にやじをとばしたり、壇上でクラッカーを鳴らしたり、騒いだりして式の進行を妨げる新成人の姿が映し出されていた。そして新成人に新成人の抱負と称したインタビューが行なわれ、「現在の首相は誰か?」などといったごく簡単な質問を新成人にして新成人がきちんと答えられなかった模様が映し出されていた。さて、ここに見ることのできるテレビの構造とはこうである。はっきり言えば、どちらのケースも成人式や新成人といった事実の一部分の事実を映し出しているのだ。たしかにそれは事実だがそれが一部分で全てを映し出していない以上、まやかしの事実であり、もはや事実ではないといってもよいだろう。しかもそこには視聴者が反応するような行為をしている新成人を報道する側(テレビ局)が意図的に選択し、彼らにそういった役割(視聴者の反応を得るような役割)を彼らの無意識の内にさせているのだ。そして彼らだけでなくその他の新成人全体に関して「新成人はけしからん奴だ。」「成人といってもひどいものだ。」といったイメージを世間にあたえる。つまりある行為にたいして意味を付与するのではなく、ある意味を付与させるような行為を意図的に選択しているのだ。いわゆるレイベリング(ラベリング)というレッテル貼りがテレビというマス・メディアを通じて行なわれているのである。こういうふうに、テレビの全てではないが、事実の一部を過大に拡大して事実と称したり、母集団を特定のグループを選ぶ等して意図的に操作されたアンケートが行なわれているのだ。そしてレイベリング(ラベリング)が行なわれる。こうした構造を生み出している問題点はなんだろうか?多くのテレビ局はNHKを除き、スポンサーからのコマーシャル代に番組制作費を頼っている。テレビ局としてはより多くの視聴者に見てもらって視聴率を上げることが求められる。なぜなら視聴率が悪いということは当然見る人が少ないということだ。そうなるとコマーシャルを見る人も少ないということで、せっかく大金をはたいたコマーシャル効果も薄い。そしてコマーシャル効果の無い、または薄い番組からはスポンサーは去っていく。したがってスポンサーからの番組費を得るためにもテレビ局は視聴率の取れる、つまり一般うけする番組を作る。ここでさっき述べたようなテレビの構造が出来上がっていくわけである。次に2つめの疑問、映し出されている人物ははたしてその人物の真実を映し出しているのだろうか?という疑問に答えてみたい。

最初に身近な具体例を挙げよう。さる去年の11月にアメリカ大統領選が行なわれ、共和党ジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国第43代大統領となった。ここでもテレビをはじめとするメディアが大きな役割を果たすこととなった。ブッシュ、ゴア両大統領候補はテレビをはじめとするメディアを通じて自己や自分の政策をアピールした。その背景には両陣営が「こうありたい」というイメージを選択しメディアを通じて大量に流すことにより、自分のイメージをコントロールした。また反対に相手のイメージを失墜させるような映像・情報を流し、相手のもつイメージまでも操ろうとしたのだ。例えば、ブッシュは出来る限り笑顔を振り撒くことで、アメリカ人が好む「ユーモアあふれる性格」「親しみやすさ」をアピールする。かたやゴアは「知性」や「副大統領を勤め上げた経験」をアピールした。逆にブッシュ陣営はゴアについて「堅物で面白みに欠ける。冷血なエリート」のイメージを与えイメージダウンを図った。ゴア陣営もブッシュについて「政策の未熟さ。経験の少なさ。」を訴えかけイメージダウンを図ったのだ。またイメージで成功した政治家の先駆けといわれているケネディは若さ・知性・華麗・勇敢といったイメージを与えWASP以外では初めての大統領となったが、実際のケネディはそんなイメージからはかけ離れた人物だったことが後年明らかにされた。こういった例えの証拠にアメリカには政治コンサルタントという職業がある。その主な業務は候補者のイメージをアップし、対立候補のイメージをダウンさせる宣伝広告業である。こうなると、もはや純粋な政治的手腕そのものよりもいかに自分が大統領としてふさわしいかをアピールし、うまくイメージ操作をおこなった方が大統領の座につき易いということになる。

 
こうして見てみるとブラウン管を通して映し出される姿はいわば演出された姿である。なにもブラウン管の中でなくても、人は自分のイメージをコントロールし他人にそのように思わせている。つまりこれはE・ゴッフマンのいう「ドラマトゥルギー」である。生活というドラマのなかで自分の理想的な姿や他人に求められる役割を演じているのである。

以上から考えると、私たちは日々メディアを通じて与えられる人の行為に対してなんらかの意味を与えているわけだが、全てそういった行為がありのままのものだとは限らない。たしかに映し出されているのは事実であったり、その人であるのだが、それは事実のごく一部分であったり、まったく意図的に作り上げた自分をまるでありのままの自分であるかのように映し出しているのだ。コミュニケーションの媒体であるメディアを通じ、いわば意図的な情報操作が行なわれている実態がある。私たちは一般的には情報を操作できる立場にあるのではなく、情報をうける側にいる。したがって操作された情報を規制することは表現の自由という名のもとに事実上禁じられている以上、私たちは供給される情報を出来る限り批判的に見て受け止めることが重要であり必要なのである。

参考文献

 『人間行動としてのコミュニケーション』鍋倉健悦 思索社

 『メディア論−人間拡張の諸相−』M・マクルーハン 栗原・河本訳 みすず書房

 『社会学のエッセンス−世の中のしくみを見ぬく-』友枝敏雄他 有斐閣アルマ