セキュリティと社会運動

以下は、2004年7月末に書いたものです。

1.はじめに
 本稿では現代社会を分析する際に、「セキュリティ」というキーワードから社会を観る。またあわせてセキュリティをめぐる社会運動にも光を当てて考えてみる。本稿ではセキュリティについて考えられることを整理してみたいと思う。
 まずセキュリティを行ったときに何を指しているのか、本稿における定義をしておく必要があるだろう。
 「セキュリティ」は日本語では安全・安心・無事などと訳される。また今日ではセキュリティはファイヤーウォールなどのソフトを使ってネット上でサーバーやPCをコンピュータウィルスからどのようにして守るのかという話になっている。広義にはそういった話も入ってくるのだろうが、本稿ではセキュリティをもっと社会的な文脈で捉えてみる。
そういう意味でセキュリティを「ソーシャル・セキュリティ」とすると、今度は社会保障となり日本においては年金や雇用といった話になり、「安全」の意味合いが薄くなる。そこで今度はセキュリティを「安全保障」とすると外交交渉で国家間での危機を対処していくという意味合いになる。安全保障というとNational Securityを指してしまい、これでは「社会」の意味合いが薄くなる。
 いろいろと考えられセキュリティのしっかりした定訳や定義をすることは難しい。そこで「セキュリティ」の本稿での定義は「社会安全保障」としておき、論を進める。
 今日、セキュリティに対しての要望は非常に強いものだとおもわれる。実際に監視社会にたいしての警戒が主張される一方で、監視カメラの設置に関して賛成する人は多い。監視社会を警戒する理由のひとつに個人のプライバシーを侵害している、さらに個人の自由を侵害しているというものだ。しかし監視カメラの設置を望むのは怪しい人を見つけてくれて安心だというものだ。たとえ自由が侵害されても安心を望むというものだ。
 つまりそこから成り立つ問いとしては、「なぜ安全がかくも重視される価値となったのか」、「なぜ自由を犠牲にしてまでも、安心・安全を求めるのか」という問いである。


2.セキュリティを求める理論的社会背景
 セキュリティを求める社会背景を理論的に考えてみる。
 ひとつにいわゆる資本や労働者の移動で表されるグローバル化や、さらに資本・労働・土地という生産要素のモビリティが乖離するような流動化といわれるような状況*1があるだろう。
 そうしたグローバル化、流動化した社会では、ある程度個人間で共有できる共通価値が崩壊する*2。また共有できる価値の崩壊は例えば経済社会をマクロレベルで論じること、そして政策として対処することを困難にし、「自己決定」という言葉で集約されるよう個人に重点が良しにつけ悪しきにつけ置かれる、などの現象が見られる。
 こうしたことがらは「大きな物語」の崩壊や「虚構の時代」の終焉といった言葉に代表されるだろうが、ここでは「情報化」ということからセキュリティを求める背景を考える。
 
 情報化社会論にはITが社会に浸透ることで「社会は将来こうなる」といった未来志向言説とIPアドレスにより個人が特定化されることから監視社会が到来するといったものがある。前者は科学技術の進歩が企業資本や国家権力と結びついたものであり、企業が広告として、国家が政策として未来志向の情報社会論を主導してきた。一方後者は漠然とした不安や安易に説明がつかないことのスケープゴートとして技術のせいにされてきたことにつながる。
 そうした情報化について伊藤・花田は「「情報化」とはまさに、たんなる情報テクノロジーの社会的浸透ではなく、社会諸勢力の様々なディスクールの対抗関係をはらんだ社会的な相克や葛藤のプロセスの内部で布置化され、構造化される動的な過程として進行したのである」と述べる*3
 つまり情報化とは様々な要素がプロセスのなかで相克しつつ進行するものといえる。したがって技術決定論でもなければ社会決定論でもない。まさしく均衡点をもたないプロセスとして表される。

 ではそうした情報化の様相を受けたうえで、そもそも本稿での情報の定義をどこにおけばよいのだろうか?
 情報には、様々なレベルがあるが、一般的には情報とは不確実性を減少させるもの、行動主体が環境から引き出すものと論じられる。本稿ではさらに情報概念を絞り込み、まず「意思決定・判断の根拠となるレベル」ともう一つ「知覚の対象となる情報のレベル」を扱う*4。そしてしばしば混同されがちな概念である「リスク」と「不確実性」という概念を上記の情報概念で対応させ説明するなら、リスクを一定の確率変数としての情報であり主体は計算可能なリスクにもとづき行為するとするなら、リスクは前者の意思決定の根拠となるレベルに相当する。一方、何かはっきりわからないが漠然とした不安を感じるといった不確実性は知覚の対象となり後者の情報レベルに相当する。
 ここまでを確認した上で、これもまたしばしば混同される「安心」と「信頼」について考察する。山岸俊男は、区別なく使われる傾向のある、「安心」と「信頼」を区別し「安定した社会的不確実性の低い状態では安心が提供されるが、信頼は生まれにくい。これに対して社会的不確実性の高い状態では安心が提供されていないため、信頼が必要とされる。」と述べている*5
 つまり情報化の結果、不確実性が増した社会ではリスクを引き受けた上で、行動できる人とそうでない人との間にリスク処理能力という差が顕在化する。また社会システム論では安心社会とは合意を前提とした社会であるが、信頼社会とは二重の偶有性を乗り越えるため信頼にもとづくコミュニケーションが出来る社会である。さきほど述べたリスク処理能力とは信頼にもとづいてコミュニケーションが出来るかどうかといことでもある。
 次にセキュリティについて統計から考える。


3.セキュリティを求める統計的社会背景
 社会安全保障という意味でのセキュリティに関しての統計は明確に提示することが難しいので、ここでは犯罪件数の推移を見てみたい。
 セキュリティを求める根拠に凶悪犯罪が増加している、とりわけ少年犯罪が増加している、という根拠が挙げられる。
 まずは凶悪犯罪が増加しているのかどうかである。以下は警視庁からの統計である*6
犯罪をここでは刑法犯と定義すると、刑法犯は平成9年ごろから増加の一途をたどっている。表1では昭和60年、1985年を100とした指数でも表されているが、昭和60年よりも昭和40年のほうが、刑法犯が多かったことは興味深い事実である。昭和40年は1965年であり高度経済成長の真っ只中である。社会の変動にともない犯罪が増加したのだろう。しかし平成10年以降はその昭和40年つまり1965年をも上回るようになっている。


表1

 凶悪犯も近年増加してきており、その水準は昭和40年と同程度にまで高まっている。
 その一方で検挙件数は平成6年ころからずっと下がり続けており、犯罪が起こっても捕まえることができなくなっている。それは図1を見ると、年々刑法犯の認知件数と検挙件数および検挙人員が乖離してきていることが明確である。


 図1

 次に少年犯罪の件数であるが、表2、図2から明らかなように昭和60年をピークにおおむね減少トレンドである。近年の件数自体は昭和60年の約半分ほどになっている。
 しかし凶悪犯は平成9年ころから200件をこえるようになっている。しかし昭和40年と比べるとそれでも3分の1程度であるから、それほど近年急に凶悪な少年犯罪が増えたとはとても言えないだろう。
 ではなぜセキュリティを求める根拠に犯罪の増加、とりわけ少年犯罪の増加を挙げる人がいるのだろうか。考えられる理由としてメディアの影響があるだろう。つまり犯罪や少年犯罪のメディアでの報じられ方に一つの原因があるのではないか。もちろん実証的に証明されたわけではないと思うが、何か少年犯罪がおこると「17歳の狂気」などと大きく報じることで、犯罪や少年の凶悪犯罪が実際の件数ではそれほど増えていないにもかかわらず、社会的なインパクトとして人々の脳裏に残るのではないだろうか。
 マスメディアが社会に与える影響について詳しく分析することは本稿の主たる目的ではないことから、次に「安心」と「信頼」、そして「監視」からさらに詳しくセキュリティについて考える。


 表2


 図2


4.「信頼によるセキュリティ」と「技術‐権力によるセキュリティ」
 これまでセキュリティを社会安全保障とした上で論じてきたが、ここでさらに「信頼によるセキュリティ」と「技術‐権力によるセキュリティ」に分けて考えていく。
「信頼によるセキュリティ」とは信頼とそれにもとづいて形成されるソーシャル・キャピタルがセキュリティとして機能する状態を指す。そして「技術−権力によるセキュリティ」とは監視カメラに代表される環境管理型権力*7につながるセキュリティである。
 そして今日のセキュリティは信頼によるセキュリティよりも技術−権力によるセキュリティのほうが優勢なのではないだろうか。というのも、今日の社会を見てみると前者の機能が低下している状況、つまり信頼に基づく行為が成立し続ける状況を社会統合とするなら、社会統合が失われてきた状況だといえる。
 そのように社会的連帯が失われた状態でのセキュリティとは、監視カメラで怪しい人物を無理に「作ってでも発見」し、排除してくれるというセキュリティか、信頼の代わりとなる別の社会統合原理を持ち出すかである。監視カメラによるセキュリティでは、安全だと感じるかもしれないが、山岸の言うように不確実性の高い社会では安心感は得られない。つまり不確実性の高まった時代において安心を求める限り、セキュリティに対する満足感は得られない。そこで監視カメラの設置を望むのと並行して、別の統合原理で信頼の減少を一時的にせよ補うことになる。


5.信頼によるセキュリティとしての社会運動
 信頼が減少しているといったが、信頼にもとづくセキュリティの例もある。例えば防犯のために地域の人たちが自発的に集まって見回りをしているのは一つの例だといえる。
 例えば、日本ガーディアンエンジェルス(日本GA)は95年の阪神大震災地下鉄サリン事件を受けて、96年に設立され、99年にNPO法人となった団体である。
 日本GAは犯罪が起こった対処というよりは、犯罪予防に活動の重きを置いていて、地域に犯罪予防について広報をおこなったり、有志のボランティアが地域を見回ったりしている。犯罪を防止する上で、窓ガラスが割れている地域では犯罪が起こりやすいという「ブロークン・ウィンドー・セオリー」に見られるように、直接犯罪が起こってから対処するよりも犯罪がおこりにくくするために活動することは意義のあることである。
 日本GAの活動により、地域の人たちが犯罪防止に向け意識付けされたり、日本GAに活動資金として寄付をおこなうという良い循環が起こっている。そして日本GAの活動は地域の人から信頼され、犯罪にたいする不安を和らげている効果もあるだろう。
 日本GAの事例は信頼によるセキュリティの例といえるが、やはりソーシャル・キャピタルがある程度存在した地域での活動であるという印象がある。ソーシャル・キャピタルが薄いと思われる、隣の住民の名前も知らないような都市部の住宅地域では信頼によるセキュリティは効果を期待できないだろう。
 そこでは監視カメラによってセキュリティを守るか、信頼に変わるような統合原理が持ち出されるのではないか。


6.社会統合によるセキュリティとしての社会運動
 信頼の減少を別の統合原理で補うときに、例えば「大きな物語」に似たものを無理に形成するということが考えられる。具体例としては石原慎太郎東京都知事の存在や「新しい教科書を作る会」の運動をあげることができる。いずれもナショナルな言説を振りまき、そしてそれに惹かれる人たちがいることは否定できない。
 石原東京都知事は2000年の陸上自衛隊記念式典にて、いわゆる「三国人発言」をした*8
 その発言はマスメディアでも大きく取り扱われ批判も多くなされる一方で、東京都庁に寄せられた石原三国人発言に対する支持は約6割にまで昇ったのである。「三国人」という語が歴史的にどういった経緯をもち、その含意は何なのか、またメディアでの報道され方が発言を部分的に報道することで誤解を与えるものであったという問題もあることは確かである。しかし支持率が約6割という、その社会受容のあり方は別途考える必要がある。批判がなされる一方、それでも支持する人がいたということだからだ。
 その考えられる理由の1つとしては、権力がある人物が実際にあやしいかどうかは別に怪しいと同定し、「発見」し摘発してくれるだろうという期待があったことがある。つまり「三国人」が具体的に何を指しているのかではなく、具体的に何かを指さないからこそ、「三国人」というカテゴリーでくくられ、怪しいと同定され「発見」し摘発するという環境管理型権力につながるセキュリティに対する期待である。
 また三国人発言が都市部でなされたことも注意を要する。都市部という情報量が多く、人口移動が頻繁な、流動性の高い社会の一部分において、石原慎太郎という擬似的な「強い(とみなされる)マッチョ」に同化することで不安を癒される都市型ポピュリズムがあったのではないだろうか。
 同じような構図に「新しい教科書をつくる会」の運動があり、小熊・上野(2003)では「つくる会」の運動を、自称「普通の市民」による、行動の規範が存在しないことや価値観のゆらぎ(社会の流動化)にともなう不安を癒す(安心感を得る)ための都市型ポピュリズムと分析した。
 つまりとりわけ都市部で顕著な社会の流動性増加にたいしてうまく対応できず、不安を感じる人たちが「大きな物語」をつくりそれにすがるものだ。これはある種のつながりによるセキュリティという点では、信頼によるセキュリティに似たものである。しかしそれが機能する時期や状況は限られているのではないだろうか。つまり運動フレームが壊れやすい社会運動であるといえる。
 したがって、今現在で効果があると期待されるセキュリティは、信頼によるセキュリティというよりは、監視カメラに代表されるような環境管理型権力につながるセキュリティであるといえる。


7.まとめ
 以上セキュリティについて、概説的に述べてきた。やはり依然として残る疑問は「なぜ人々は自己の自由を侵害することになっても、安全を求めるのか」「なぜ安全がそこまで重要な価値となったのか」という問いに対する疑問である。
 上記の問いに答えるためにはやはり、さらなる社会理論やミクロな行為に結びついたマクロな統計を必要とする。
 また仁平(2003)が指摘しているように、ボランティア概念の肥大と、ボランティアに参加できない人もいるなどボランティアが内包する権力について視野をひろげておくことも忘れてはならない。それは、信頼によるセキュリティから排除される人(ソーシャルキャピタルから排除される人)にとっては監視によるセキュリティに向かわざるを得ない状況もあるということだ。今後、「信頼」概念を検討するに際し、是非頭においておくべき問題である。
 いずれにせよ現代社会を分析するためのキーワードとして「セキュリティ」から考えることが意義をもつことであるし、本稿はその最初の一歩になることだろう。


8.参考文献
東浩紀大澤真幸,2003,『自由を考える日本放送出版協会
伊藤守・花田達朗,1999,「「社会の情報化」の構造と論理」児島和人編『講座社会学8 社会情報』東京大学出版会
児島和人,1999,「総論 現代における社会情報の多相的生成」児島和人編『講座社会学8社会情報』東京大学出版会
内閣府,2004,『国民生活白書(平成16年版)』国立印刷局
仁平典宏,2003,「<権力>としてのボランティア活動」『ソシオロゴス』No27
小熊英二・上野陽子,2003,『<癒し>のナショナリズム慶應義塾大学出版会
Putnam, Robert,1993, ”MAKING DEMOCRACY WORK” Princeton University Press(河田潤一訳,2001,『哲学する民主主義』NTT出版
山岸俊男,1998,『信頼の構造』東京大学出版会

*1:例えば一国経済、および東南アジア経済から一国の年間予算を上回る量の資本が数日の間に急に引き上げられたことでアジア金融危機が引き起こされ、そして危機がロシアや南米といった遠く離れた地域経済に波及したことは記憶に新しい。

*2:日本国民に多くが中流だと認識していた中流意識に疑問を呈し、階層分化が顕在化した中流崩壊論争もこの共通価値の崩壊の例だと考えられる。

*3:伊藤・花田(1999)212、213項

*4:児島(1999)を参照した。

*5:山岸(1998)50、51項『信頼の構造』(東京大学出版会

*6:本稿で用いた表1と図1、表2と図2の出典は警視庁である。詳しくは以下のURL参照 http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/bunsyo/bunsyo.htm

*7:環境管理型権力とは人の行動を物理的に制限する権力である。フーコーに代表される規律訓練方権力は一人ひとりの内面に規律・規範を植えつける権力である。環境管理型権力では環境をコントロールすることで、主体が意識するにせよ、意識しないにせよ、あわせてコントロールする権力である。例えばマクドナルドでは客が混んでくると、BGMの音量を上げたり、長居できなくするためにわざと硬いイスをつかって、人を物理的に本人が意識しないままコントロールしている。詳しくは東・大澤(2003)を参照。

*8:三国人発言とは、2000年4月9日陸上自衛隊練馬駐屯地創隊記念式典において、石原慎太郎東京都知事が挨拶の中でおこなった発言である。以下、発言を部分的に掲載する。「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな騒擾事件すらですね、想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを申しておきます。」という発言である。