近代の観察メモ

WindowsからMacへデータを移行したっきりデータの中身は見ていなかったのですが、久しぶりにPCの中を整理していたら、昔書いたものが出てきたので、随時アップすることにしました。


今回は、ニクラス・ルーマン『近代の観察』のメモです。2004/12/04に書いたものです。

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)


第1章 近代社会における近代的なるもの


・近代社会の近代性に関する分析の前に社会構造とゼマンティクの区別から始める*1。この区別は自分自身を含んでいる。この区別そのものもがゼマンティク上の区別である。さらにこの区別は作動と観察の区別に由来するが、これらの区別自体もある観察者による区別である。

・近代に関する議論の大半は、ゼマンティクのレヴェルで行われている。かくして近代社会を性格づけようとする試みにおいては、全体社会の自己記述に由来するメルクマールが名指されることになる。

・近代は自己の予期が充足されるのを先延ばしにし、自己観察と自己記述に伴うあらゆる問題を、未来が<未だない>ことによって回避しようとした。ポストモダンの言説は、未来のない言説である。したがってポストモダンにおいては、システムのなかでのシステムの記述(つまり、記述が自分自身をも記述すること)というパラドックスが別のかかたちで解決されねばならないことになる。それは複数性の形式においてなされるが、「なんでもあり」の形式を意味するわけでない。

・今や自己を<近代的>と呼ぶようになった全体社会は、自己記述の問題を、時間図式を通じて解決しようと試みるようになったというだけのこと。それでは、全体社会はまだ自分自身を十分に把握しえていないことになる。

・あらゆるオートポイエティク・システムは不断に自身の過去へと遡及することによってのみ自己の同一性を形成しうる。それは自己言及と他者言及を区別することによってということである。現在ではこの遡及は非同定=差異によって生じる。

・近代社会を血統=由来の保護という問題として定式化することはできない。問題は別様であることを不断に生み出していくという点なのである。しかし非同一性だけからではどのように別様なのかを規定できない。それゆえ基準が必要になる。非同一的なものがより高度なレヴェルにおいては同一性をもたねばならない。
必要なのは近代社会が先行する社会から構造的に、またゼマンティクのうえで異なっているのはどの点においてなのかを示すこと。そのために、以下の点を明らかにしうるような全体社会の理論が提出されねばならない。すなわち問題にしているシステムはある点においては常に同種であり、おそらく同一ですらある。つまりそれは、常に全体社会システムなのである。にもかかわらず歴史的な差異によってこのシステムが区別されるとしたら、それはいったいいかなる意味のことなのだろうか。

・近代の基準について、文学や芸術理論とくらべ社会学が挙げた成果はわずかなものだった。社会学が生み出したキャッチフレーズにはどの点からみても一面性の徴が刻印されている。分化や複雑性といった旧来のテーマを別にすれば、社会学には構造的メルクマールの観念が欠落している。

・構造とゼマンティクの連関を表すゼマンティクが、つまり構造を介して自己を再生産する全体社会の自己記述を扱う理論が欠けているのである。


社会学者によって近代社会に関するいくつもの記述が育まれてきた。例えば、マルクスを引き合いに出しつつ推し進められてきた資本主義経済システムの批判である。その議論の核心は、近代科学においては個人主体に対する意味を具体的に創出する意識の働きが度外視されていることである。

マルクスフッサールの平行性に思い至るためには、技術をより抽象的な概念として踏まえておかねばならない。技術とは、包括的な意味において考えるならば機能する単純化にほかならない。すなわちそれは複雑性を縮減する形式であり、それが生じるための舞台となる社会と世界を知らなくても構成され実現されうるのである。個人の解放は、この技術化から不可避に生じる副次的効果なのである。

・問われるべきはもはや「人は何であるべきか」ではなく、「人はいかにあるべきか」である。個人が技術によって先に述べたようなかたちで周縁化される場合には、その分だけ距離を取ることもできるようになる。その距離が、自己の観察を観察することを可能にする。近代的な意味での個人とは、自己の観察を観察しうる者のことである。


・技術と個人性の二連車で、未来という霧のなかへ乗り入れていく。これがわれわれが置かれた状況であることを強調しておこう。しかしそれが近代の唯一の記述であり続ける必要はないはずである。
十分に一貫した理論デザインを尊重するのであれば問題はむしろ、さらなるメルクマールを見出すことである。そのための出発点として踏まえるべきは非マルクス的に理解されたマルクスなのである。

マルクスによれば、資本主義の経済秩序はむしろ社会的な構成物なのである。

・資本主義経済が依拠しているのは社会外の客観性ではなく、自分自身なのである。

マルクスの分析を通常のスタイルの経済理論から区別するものは依然として有効である。それはすなわち次のような洞察である。経済は自己記述をみずから投企する。自己を経済の理論そのもののなかで描き出し、そこから自己言及と他者言及を規制するのである、と。

*1:反復的使用のために簡潔に固定された意味、特にテクストのかたちをとったもの。ある時代において社会を観察・記述するために好んで用いられる一連の語彙と考えてもよい。