「うつ」になるとき

IT業界に身を置いて身近になった言葉に「うつ」というものがある。
それまでそういう風になる人もいるのかくらいにしか、感じられない程度に遠くはないにせよ、近くもない言葉ではあった。ただ今振り返ると、「あの時の状態はうつ状態だった」と思えるのも、「うつ」という言葉が自分の身近にある言葉になったからである。

IT業界に身を置き、「うつ」の人が実際に自分のまわりに何人も出現し、そして「うつの人の出現」についていろいろ耳にも入ってきて、果ては実際に自分が「うつ状態」に何回かなったことで、「うつ」という言葉はいよいよ身近になった。それは「風邪」程度に身近なものである。

実際に「うつ状態」になってしまえば、それはただ「心」が「風邪」をひいたくらいの感じで、それほど「異常なもの」ではないとわかる。もっとも「うつ病」ともなると、「風邪」というよりは、「重いインフルエンザ」のように本当に酷いもののようだが。

ただやはり「うつ」というのは、人によって理解を示す程度に差があり、「そういう時もあるよね」と思ってくれる人もいれば、「「うつ」なんてなったこともないし、なりそうもない。」「そういう風になる人の気持ちが分からない。」果ては「精神力が弱い」と切って捨てる人もいる。「うつ」の辛さの要素のひとつには、この無理解が多分にある。一番言われてキツイのは、「心が弱いんだよ。もっとガンバレよ。」というセリフである。この時ばかりは、本当にコミュニケーションが届かないことを思い知る。


そもそも「うつ」になるのは、ハードワークが原因ではない。同じように、ハードワークに伴う体力的なしんどさでもない。まして、体力面のしんどさを補う精神力の弱さではない。どんなにハードワークでも、それに「意味」があれば「うつ」にはならないのだ。

「うつ」になるのは、自分のやったことが全く周囲に影響を与えていないと感じられた時、自分が世の中とのつながりを持たず、無力感に打ちひしがれた時である。このように、周囲や世の中に影響・つながりを持っていると思えない=意味がない、と痛感したときに「うつ」になる。

具体的な自分の経験を例として挙げると、何のためにあるのか分からない仕事、またはどう考えても合理的でない仕事に対して、それでも「仕事だから」「金をもらっているから」と精神論で耐えて、「ガンバ」ってついにやり遂げたのに、その目的・範囲が曖昧だったため、結局イチからやり直しになったときである。その時は「意味がなかった」「もうダメだ」ということだけが、ひたすら頭を駆け巡った。

別な例を挙げれば、自分が比喩で「ルームランナー」と読んでいる状態にある。デスマーチに典型的なように、顧客の要件が固まらないまま設計をして、思うように設計が進まず、おおよその設計のもと実装をしてカタチ上は終わりが見えた頃に、要件の変更を受けて修正につぐ修正。いろいろ手を動かしてモノを作っているはずが、進んでいる感覚が持てない時である。さらに悪い時には、あせって進めれば進めるほど、悪循環という劣位均衡に陥っていく「蟻地獄状態」。それでも予算とスケジュールはタイト。あきらめとともにプロジェクト内の規範はゆるみっぱなし。そんな時、合理的に考えれば考える人ほど「うつ」になる。


このようにいわば「ヨコのつながり」がないために「うつ」になるときもあれば、別のパターンもある。それは目標があるにもかかわらず、その目標を実現するための手段が見つからない時にも「うつ」になる。どういうことか例を挙げると、家族を養うという目標があるにもかかわらず、リストラをされ仕事という手段から切り離されてしまった中高年男性の自殺が多いのはこのパターンが考えられる。別の例としては、表現したいこと(理想)があるにも関わらず、思うように表現できないときなどで、しばしば創造的な人ほど「うつ」になるのは、この理想とのギャップがあるためである。いわば「タテのつながり」が感じられないためである。


ここまでの議論をまとめると、世の中とのつながり、他者への影響力を感じられないとき、または目標達成手段からの疎外を感じるときに「うつ」になるのである。


さて今回は「うつ」と産業構造との関係というよりは、個人とその関係に焦点をあてて書いた(種明かしをすると、デュルケームアノミーマートンアノミーを下敷きにして書いている)。産業構造との関係、具体的にIT業界という先進産業「にもかかわらず」「うつ」が多いのか、もしくはIT業界という先進業界「だからこそ」「うつ」が多いのについては触れていない。ただし、「うつの増加はIT業界から始まった」といわれるように、IT業界と「うつ」との関係は重要な問題であるし、個人的な感覚として「非常に多いな」という実感はあることは述べておく。