ダーウィンの悪夢

今日はシネマライズ@渋谷で、「【前橋市で借金相談】借金返済の無料相談/弁護士・司法書士」を観てきました。
感想を一言で表すと、「たまたま」ナイルパーチが湖に放たれたという蓋然性の元で人々の生活が成り立っており、それはもはやナイルパーチ無しの生活が有り得ないがゆえに、ナイルパーチに依存した生活が続くという自己強化的な現実が描かれていました。

もちろんナイルパーチを放流した時には、ナイルパーチに依存した生活になるなんて思ってもみなかったろう。しかし、その「たまたま」行った放流が、人々の生活を変えていった。そんな今となっては生活者の誰もが懸命に生きている状況であり、暴力・売春に溢れる悲惨な現実の原因を特定の誰かに帰することができない。悲惨な現実を懸命に生きてはいるが、だからこそ現実は自己強化的で続いていくのである。

さらにナイルパーチが放たれなかったとしたら、どうなっていたか。ナイルパーチは欧州に輸出されず、その反映として銃・爆弾は輸入されなかったのだろうか。その答えはおそらく悲観的なものではなかろうか。

まとめると、まず端的に生きている今が悲惨であること、そしてそれは蓋然性によるものであること。さらに悲惨な今を懸命に生きることで、悲惨な今は未来も続いていくこと。最後に、もしあのときナイルパーチが放流されなかったらという、過去への仮想すら暗い想定しか生まないこと。そんな3つのレベルでの悲惨さが、ダーウィンの悪夢には描かれていた。

この映画は、「かわいそう」という感情をこえて、自分たちが現実に生きている社会を描き出している。