第九回

3 ソーシャル・キャピタルによるセキュリティに対する疑問と応答

 ここまで述べてきたのは、信頼、互酬性の規範、ネットワークという社会組織の総体であるソーシャル・キャピタルによってなされるアプローチとし、物理的な情報技術に基づく監視や法・警察力の強化によるアプローチの二つを主にセキュリティに対するアプローチとして述べてきた。そして蓋然性に基づき犯罪に突き動かされることの対処法として目下行なわれているのは監視や厳罰化というアプローチであり、あやしい人物がいれば捕まえてくれるという効果期待や予防的に対処するような効果期待がある。しかし監視や厳罰化というアプローチによって安全が供給されたとしても、完璧な安全が到達不可能である以上、また不確実性が高まった時代では「安心」が供給されにくい以上、「安心」のために完璧な「安全」を求めセキュリティは上昇していくのである。
 それに変わるアプローチとして、セキュリティに対するソーシャル・キャピタルの役割について改めて信頼概念を検討しつつ述べてきたが、ここで予想される批判についてあらかじめ答えておこう。ここではおおきく三つの疑問について考えてみる。まずソーシャル・キャピタルは循環論であるという批判(批判鄯)、ソーシャル・キャピタルの良い側面と悪い側面を区別できないという批判(批判鄱)、そしてソーシャル・キャピタルから排除される人がいるという批判(批判鄴)である。

 批判鄯について。まず第2章で確認したように、ソーシャル・キャピタルに取引コスト削減機能があることは理論的にはわかったが、実際はリスク社会ではソーシャル・キャピタルが減少しており、逆に機会主義的行動が発生しやすいのではないかという疑問である。さらに本研究の文脈に合わせて言うと、セキュリティが問題化するのはソーシャル・キャピタルが減少したからにもかかわらず、またソーシャル・キャピタルを持ち出すのは意味がない。それはつまるところ懐古主義にすぎず、有効ではないのではないかという指摘が予想される。
 確かにそういった指摘は当たっている側面がある。しかしながらそのような指摘はソーシャル・キャピタルをあまりにも一面化・本質化した指摘であるといえよう。少し別の観点から述べてみよう。パットナムがMaking Democracy Workを著したときの問題点はソーシャル・キャピタルを一面化してしまったこと、それに伴い歴史に由来するトートロジーに陥ってしまったことだ。つまり協調行動とソーシャル・キャピタルの初期条件に由来した循環である。このことをポルテスはパットナムのソーシャル・キャピタル論は循環論であり、したがって成否が初期値に左右されると批判する(Portes 1998: 19-20)。それは、はじめにうまくいけば、ソーシャル・キャピタルが蓄積され好循環になるが、初めが悪ければ悪循環に陥るというものだ。したがってPutnam(1993=2001)のように一面化したソーシャル・キャピタル概念では、リスク社会におけるセキュリティを考える際に、トートロジーに陥る。
 しかしながらパットナムが後の研究(Putnam 2000)でおこなったように、bonding type(結合型)とbridging type(橋渡し型)の区別*1を用いれば、情報化が進んだリスク社会で必要とされるソーシャル・キャピタルはbonding type(結合型)というよりも、bridging type(橋渡し型)ではないだろうか*2。再度、山岸のおこなった安心と信頼の区別を持ち出すと、「安定した社会的不確実性の低い状態では安心が提供されるが、信頼は生まれにくい。これに対して社会的不確実性の高い状態では安心が提供されていないため、信頼が必要とされる」(山岸1998: 50-51)のである。つまり、bonding type(結合型)は安心にもとづき、bridging type(橋渡し型)は信頼に基づいているとすれば、リスク社会で必要なものは山岸のいう意味での信頼であり、bridging type(橋渡し型)のソーシャル・キャピタルであるだろう。したがって不確実性の高いリスク社会でソーシャル・キャピタル全般の意義が失われたことにはならないのである。

 批判鄱について。次にソーシャル・キャピタルの「良い発現例」と「悪い発現例」は機能的に等価で区別できないという批判も予想される。これはどういうことかを、日本ガーディアンエンジェルスと新しい歴史教科書を作る会を具体例にとって考えてみる。
 まず情報化が弱いつながり(weak tie)を活性化させNPOなどネットワーク組織を活性化させる可能性が高めたという議論があり(金子1992, 2002)、この主張に沿うような例として日本ガーディアンエンジェルスを挙げることができる。日本ガーディアンエンジェルスは95年の阪神大震災地下鉄サリン事件を受けて、96年に設立され、99年にNPO法人となった団体である。日本ガーディアンエンジェルスでは、犯罪が起こったときの対処を行なうというよりも、犯罪の予防に活動の重きを置いていて、地域社会に犯罪予防について広報をおこなったり、有志のボランティアが地域を見回ったりしている(国民生活白書(平成16年度版): 32-33)。
 しかし日本ガーディアンエンジェルスが信頼にもとづくソーシャル・キャピタルが発現した組織の例として挙げることが出来る一方で、都市部のアノミー現象を埋めるべく沸き起こった「新しい歴史教科書を作る会」の運動*3も、流動化に対するソーシャル・キャピタルの発現の例として機能的な等価物と考えられる。つまり流動性にともなう不安を少なくさせるという機能では両者とも等価であるということだ。同じようにテロリズムやそれを支えるネットワークを負のソーシャル・キャピタルの発露ととらえることもできるだろう。
 要はソーシャル・キャピタルにも「良い発現例」と「悪い発現例」があるということであり、その点でソーシャル・キャピタルの発現例としては機能的に等価で区別できないという批判は妥当である。しかし「悪い発現例」があるからといって「良い発現例」もあわせてソーシャル・キャピタルを否定することよりも、「悪い発現例」を減らし「良い発現例」を増やすことを考える方が生産的だろう。そして何よりも価値で判断するよりも機能で判断する方が良い。すなわち先ほど「良い発現例」「悪い発現例」と述べてきたが、そうした価値判断も人の立場性による。したがって価値の多様性を担保する意味でも、価値判断を抜きにしてその機能―さきほどの例では流動性にともなう不安を少なくさせるという機能―で判断し、ソーシャル・キャピタルを問題に応じて使用することはあってよい。ソーシャル・キャピタルを使用するか否かは、その機能が問題に対して資するかどうかで判断するのである。

 批判鄴について。最後に「ソーシャル・キャピタルが非営利セクターで発現した具体例である、信頼にもとづくボランティアやネットワーク組織をとるNPO/NGOが重要である」という言明について批判が生じるだろう。つまり第1章3節での議論にひきつけると、ネオリベラリズムにおける問題―「社会の消失」によって蓋然性にもとづく格差や貧困が生じるという問題―を解消するための第3セクターの必要性は、逆に問題を悪化させる可能性を批判するものである。例えば、ボランティアが出来るのはある程度の時間や経済力を必要とし、ボランティアが出来る人の声が代表されてしまうこと、またボランティア「する方」からも「される方」からもこぼれ落ちる存在がいるということである(仁平 2003)。つまりボランティアの始原を「他者でありえたかもしれない」という偶有性から生じる他者に対する「共感」とするなら、共感を引き起こさない対象にはボランティア論は届かないというものだ。そして自発的に行動するボランティアは、自己決定の主体を求めるネオリベラリズムが作動する条件となり共振するとの批判もある*4
 だがここで問題なのはボランティアという行為そのものが問題であるというより、ボランティアが届かないことが問題なのである。つまり「共感」がとどかない対象にいかに「共感」をとどけるかが問われている。第1章3節で述べたように、どこに生まれるかという蓋然性は「社会が消失」したネオリベラリズムの「個人の努力」という普遍性に置き換えられることで問題になってくる。それに対して偶有性に基づく「共感」を広げることは、ネオリベラリズムに対して「社会」を復活させることである。その意味で問題はボランティア行為というより、それがおかれる状況であって、「われわれ」という意識にささえられた「社会」を広げることが重要なのである。ネオリベラリズムに対して「社会の領域」を広げることでボランティアに関する問題のいくつかは解消できよう。

4.社会政策におけるソーシャル・キャピタル

 3節の議論で3つの代表的な批判点に対してそれぞれ個別に検討してきた。ここでまとめて3つの批判点・問題点について政策の観点から応答しよう。
 上の議論のような批判点・問題点を認識した上で、それでもなおソーシャル・キャピタルに目をむけるのは、社会政策として有効である可能性が高いからである*5。政策論で重要なことは「best or nothing」ではなく、「better or a little better」である*6。そして社会の流動性が増し人々の価値が多様化した中では、最大の損失を最小化するミニマックス定理が政策のベースとして必要となるだろう。つまり価値観の多様化は「何が幸せなことか」「何が満足か」に対する一義的な合意を困難にさせるため、「最大多数の最小不幸」を基準にして政策を考察することが必要となる。
 そのような認識にもとづいて、もう少し具体的な政策の方向性を考えると、政策としてソーシャル・キャピタルを用いた時に重要になってくることは多層にわたるコミュニティの形成であろう。ソーシャル・キャピタルやそれに基づくコミュニティを一元的なものとしてとらえると、個人を抑圧する原理となる。重要なことは「自由」を保障するために自由を制限するという「自由のための制限」であり*7、そうして生まれた共(コモンズ)は多層化することが重要である*8。このことをセキュリティに関して応用すると、齋藤純一が述べるように「集合的なセキュリティは、第一に、人びとに離脱(exit)の自由を保障することによって声を挙げる(voice)自由を可能にし、第二に、有用かどうかで人びとが測られるのではない空間を分節化するという仕方で、政治的自由の条件を明らかにする」(齋藤 2001: 43)ことが求められる*9

 ここまでの議論でセキュリティとソーシャル・キャピタルを関連させて信頼という概念を踏まえて理論的に考察してきた。さらに予想される批判点にも答えてきた。それでは以上の理論的考察を踏まえる形で、以下の章ではセキュリティに対するソーシャル・キャピタルについて実証的に分析していく。そのためにまずはロバート・パットナムが行った実証研究の枠組みや方法を第4章にて検討する。

*1:前者は組織内での強い結びつきであり、内部で協力、結束、安心を生む。後者は組織間でのゆるい結びつきであり、協力、信頼を生む。

*2:この議論については第2章3節を参照のこと。

*3:小熊英二と上野陽子は新しい歴史教科書を作る会に象徴される「保守」的な社会運動を実証的に分析し、流動化した都市部中産階級アノミー現象が引き起こしたナショナリスティックな運動とした。つまり流動性の高い都市部で不安になった人々が「保守」的な言説を持ち上げ、それにすがる運動として分析されている(小熊・上野 2003)。

*4:ボランティアとネオリベラリズムの共振問題については、仁平典宏が共振の条件と共振の結果に分け問題を整理している。そして共感困難な<他者>との連帯が共振を回避する上で重要だと述べられている(仁平 2005)。

*5:ソーシャル・キャピタルに注目した政策の代表例としては、いわゆる「第三の道」がある。第三の道では市場メカニズムを有効に使い、政府の役割も強調される。そして何より政府と市場を否定しない、ソーシャル・キャピタルに基づく、中間集団の役割が重要である(Giddens 1998=1999, 2000=2003)。

*6:政策はしばしば薬品に例えられる。つまり副作用の無い薬が無いように、また副作用の少ない薬は効果も少ないように、政策には必ずプラスの効果とマイナスの効果が存在する。問題によってプラスとマイナスを鑑みつつ、政策というものは実行されるのである。

*7:ローレンス・レッシグは、著作権の過度な主張が表現の自由をおびやかしているとの問題意識のもとで、法によって特定の人が有利となるアーキテクチャを規制する必要があると説く。その上で自由な表現活動を行うために自由を制限した情報の共有地(コモンズ)が必要であると説く(Lessig 1999=2001, 2001=2002, 2004=2004)。

*8:見田宗介橋爪大三郎との対談で「関係性のユートピアとしてのシンフォニーみたいなものが全域的でありうるという幻想が、たぶん20世紀の最大の実験の失敗の原因で、ようするにコミュニズムはコミューンのお化けだと思うんですが、数人とかせいぜい数十人でしか具体的に可能でないものを全域的であるかのうように幻想したのが基本的な間違いなので全域のルール、あるいはコミューン間関係のルールとしては、ぼくは市民社会の方が正しいと思っているわけです。」(見田・橋爪 1997: 140)と述べている。

*9:また本節の大筋とは離れるが、テロリズムを支える負のソーシャル・キャピタル―機能的には正のソーシャル・キャピタルと等価である―に話を限って、テロリズムの原因を世界的なレベルでの交換の不均衡に求めるならば、つまり現代資本主義において先進諸国がその他の国々の搾取の元に成立しているならば、テロリズムに対する最高のセキュリティは不均衡を解消する無条件の贈与となる。つまりテロをささえる負のソーシャル・キャピタルを解消させるような社会政策の究極形態は「無条件の贈与」・「赦し」である。このような個別具体的な政策を支えるメタ政策思想は思考実験として可能だろう。この種の議論について、詳しくは見田(1996)、大澤(2002)、Borradori(2003=2004)でのデリダの議論を参照のこと。