第六回

第2章 ソーシャル・キャピタルの再検討

1 ソーシャル・キャピタルはどのように定義されてきたか

 まずソーシャル・キャピタルについて定義づけを簡単に行っておく*1
 Social Capitalという言葉を始めて使ったのはアメリカの教育者ハニファンであるとされている。ハニファンは学校教育には農村コミュニティの関与が重要であると述べる際に、善意や仲間意識にもとづく隣人とのつながりや、社会的交流をソーシャル・キャピタルと定義した。この定義には、「つながり」「仲間意識」「善意」というように現在のソーシャル・キャピタルの定義にかなり近いものであったが、当時はそれほど大きな影響を残すことはなかった。
 その後1960年代に入り、アメリカで都市開発や都市計画のあり方について問題が浮上した。そこでは画一的な都市の再開発がなされていて、その結果古きよき都市コミュニティが破壊されることを憂いたのがジェーン・ジェイコブズであった。ジェイコブズは都市部の社会的ネットワークの重要さを説き、そのときにソーシャル・キャピタルという語を用いたとされる。
このようにソーシャル・キャピタルという語は当初「健全なコミュニティ」という文脈で用いられたものだった。

 一方、アメリカの経済学者グレン・ラウリーが人種間の収入格差を説明するためにソーシャル・キャピタルという語を用いた。つまり人種によって収入の格差が見られるのは、人種間で人的資本(human capital)を獲得する過程に違いがあるからだとし、その獲得過程環境をソーシャル・キャピタルとした。たとえば、白人は人的資本の獲得に有利な環境にある、すなわち人的資本獲得に有利なソーシャル・キャピタルがあるということである*2
 また、フランスの社会学ピエール・ブルデューは人間の日常的なコミュニケーション活動に着目し、その手段として文化資本ソーシャル・キャピタルを用いた。ブルデューによれば、ソーシャル・キャピタルに恵まれた人物は例えば就職活動などのさいに「コネ」や「人脈」を利用し有利な就職をすることができる。その意味でブルデューは今日で言う社会ネットワークに近い意味でソーシャル・キャピタルを用いている。
 そしてソーシャル・キャピタル概念形成に大きな影響を与えたアメリカの社会学者コールマンによれば、ソーシャル・キャピタルとは単一の実在ではなく、次の二つの属性を共有する非常に多様な存在である。つまり「1.社会構造のある側面からなる、2.その構造の中に含まれている個人に対し、ある特定の行為を促す」(Coleman 1990=2004: 475)という2つの属性をもっているものである。
 ここである特定の行為を他人との協調行動とすると理解しやすい。つまり他人との協調行動が成功することで「信頼」がうまれ、その信頼があらたな協調行動の成功に繋がるのである。このように協調行動によってソーシャル・キャピタルが蓄積されることで、様々な利益を個人にもたらすのである。 
 このようにラウリー以降ソーシャル・キャピタルはネットワークや信頼をベースにしつつ、個人に注目するようになったのである。そしてとりわけコールマンの研究が、パットナムの研究―ソーシャル・キャピタルに様々な人たちの目を集めるきっかけとなったのはパットナムの研究である(Putnam 2000)―に影響を与えたのである。

 パットナムによれば、ソーシャル・キャピタルとは「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(Putnam 1993=2001: 206-207)である。
 まずパットナムはMaking Democracy Work(邦訳『哲学する民主主義』)の中で、南北イタリアの制度パフォーマンスの違いを示すものとしてソーシャル・キャピタルを用いた(Putnam 1993=2001)。北イタリアでは政治参加といった制度がうまく機能していて、コミュニティ活動が活発でありネットワークも水平的であると実証分析をおこなった。一方南イタリアでは制度パフォーマンスが芳しくなく、コミュニティ活動も活発でなく、ネットワークも垂直的であるという結論をくだしている。そしてソーシャル・キャピタルが歴史依存性(historical path)に負っていることを指摘している。北イタリアではソーシャル・キャピタルの蓄積に有利になるような歴史的遺産(civic heritage)があったというわけである。つまりパットナムは制度パフォーマンスを説明するのは最終的にはソーシャル・キャピタルであるとし、「自発的な協力がとられやすいのは、互酬性の規範や市民的積極参加といった形態での社会資本を、相当に蓄積してきた共同体である」(Putnam 1993=2001: 206)と述べる。
 さらにパットナムはBowling Aloneの中で、自分の母国のアメリカで「一人でボーリング」現象に典型的にみられるように、ソーシャル・キャピタルが減少してきていることを州データに基づき示した(Putnam 2000)。
 その結果アメリカでは政治団体・宗教団体への参加、組合、社交組織などに対する市民の参加が現象してきており、その原因としてTVの普及、女性の役割変化、人々の流動性の増加、ライフスタイルの変化、市民活動に対する価値観の変化などが指摘されている。

 このようにソーシャル・キャピタルの定義に関しては、代表的な論者を挙げるだけでも様々であるが、以下の研究では主にパットナムの定義を採用するかたちで議論を進めていきたい。

2 ソーシャル・キャピタルの性質

 ソーシャル・キャピタルの機能的側面として、まず取引コストの削減が挙げられる。
情報化の進展にともなうグローバル化や社会的流動性の増加に伴い、従来見られたような特定の相手とのコミットメント関係が成立しなくなりつつある。言い換えれば、特定の相手とのコミットメント関係を継続する機会費用が増加したということである*3。そこで不特定多数の相手との関係が求められるわけであるが、それは論理的必然として機会主義的行動を生み出す。すなわち1回限りのゲームにおいては協力することよりも、裏切るほうが合理的であるということである*4
 また情報化により、情報の取引コストのうち、情報の検索コスト(コミュニケーション・コスト)は低減した一方で、情報の良し悪しを選別するための信用コストは増大したといえる。例えば、インターネットは様々な情報が一瞬で集まるという点で収集コストは少ないが、膨大な情報から真に欲しい情報を選び出すのは検索エンジンが発展した現在でも苦労することである*5
 上記を踏まえ、ソーシャル・キャピタルのように関係性を継続することは繰り返しゲームを発生させるということであり、機会主義的行動をとりにくくさせる。一回の裏切り行為が継続する関係の中で不利益をもたらすからである。関係性の継続することによって、個人は機会主義的行動を取りにくくなり、協調行動が生み出される可能性が高くなる(Axelrod 1984=1998)。さらに協調行動の発生は、集合的意思決定(collective decision-making)を効果的なものにしやすい。つまり協調行動が地域の公共財を管理する上で効果的に働くということだ(Grootaert 1998: 6)。

 そしてソーシャル・キャピタルがあえて「資本」と呼ばれるのには、それが蓄積可能であるだけではなく、他の目的のために転用可能であり、それ自身が増殖していくからである。つまりある行いによってソーシャル・キャピタルが蓄積され、その蓄積されたソーシャル・キャピタルが他の目的のために転用されるのである。そして転用されることでさらにソーシャル・キャピタルは蓄積され、ますます「資本」として増殖していく。
 具体例な資本の転用を挙げておくと、歴史社会学者の池上英子は俳諧サークルを中心に徳川時代後期に形成されたネットワークが、後にデモクラシーと人民の諸権利を求める民衆運動の原動力になっていったことを挙げている(池上 2005: 281-285)。すなわち文化的なネットワークとして蓄積されたものが、政治的なネットワークとして転用されたのである*6。現在でもある目的のために形成されたネットワークが別の目的のために転用されることはよくあることである。

*1:ソーシャル・キャピタルの定義について様々な論者の定義をまとめたものはこれまでに多く発表されている(Grootaert 1998; Portes 1998; Baron et al. eds. 2000; Lin et al. eds. 2001; Lin 2002; 佐藤編 2001; 国際協力事業団 2002; 金光 2003; 内閣府 2003; 宮川・大守編 2004)。したがって本稿では、ソーシャル・キャピタルとは何かについて概観することにとどめ、ソーシャル・キャピタルの展開に関する詳しいまとめはこれらの研究に譲る。

*2: このラウリーの議論は、ソーシャル・キャピタルとヒューマン・キャピタルの相関を分析する際に重要な視点を与える。つまりソーシャル・キャピタルとヒューマン・キャピタルが完全に正の相関を示すならば、ソーシャル・キャピタルは新たな社会格差を生み出す装置となる可能性があるからである。

*3: いわゆるメインバンク制度は銀行と企業との間のコミットメント関係の構築・維持に他ならず、メインバンク制によって銀行は企業をモニタリングするためのエージェンシー・コストを下げることが出来た。そして銀行自身が経営資金の供給主体でありながら、監査をも務めていた。しかしながら金融経済のグローバル化は従来型のメインバンクによるコーポレートガバナンスの限界を明らかにした。その一方でエンロンに代表される株主価値の最大化によるコーポレートガバナンスも限界があったことは記憶に新しい。

*4:1回限りの関係である観光地でのお土産が見た目より量が少なく割高なことを考えると機会主義的行動が起こりやすいとわかる。

*5:蛇足だが、「ITによる組織・組織間の中抜き」は情報収集コストの低下から論理的に導くことが出来るが、一方信用コストの増加を考慮していない。このように取引コストに注目すると情報選別機能をもった中間管理職や商社にはそれなりの機能を担っているといえる。

*6:池上英子は詩や俳諧を中心としたネットワークが表向きの身分階級の裏で発達し、日本列島をゆるくまとめあげる文化的装置と述べている。つまり近代国民国家以前に市民的な礼節が育まれ、この市民的礼節が近代日本への移行をスムーズにさせたのである(池上 2005)。