第四回

第1章 なぜセキュリティが問題となるのか

1 社会的関心としてのセキュリティ

 ジグムント・バウマン現代社会を評した際に、「個人的な安全に対する人々の関心は、他の全ての関連のある恐怖よりも突出しており、他方、不安の他の原因は全て深い影の部分に隠されるのである」(Bauman 2000=2001b: 94)と述べているように、セキュリティへの欲求は今日強いものだと思われる。
 例えば、情報化にともなう「監視社会の到来」にたいして反対や警戒が強く主張される一方で、もちろん程度問題ではあるとはいえ、監視カメラの設置に関して反対しない人は少なくない。一方の監視社会の到来を警戒する側が挙げる反対理由としては「個人のプライバシーを侵害している」、さらに「個人の自由を侵害している」というものがあり、監視によって得られた情報が行政権力と結びつき、行政によってコントロールされる危険性を指摘するものである*1。しかしながら他方で監視カメラの設置を望む側は「監視カメラがあったほうが怪しい人を見つけてくれて安心だ」というものである。それはたとえ多少の自由が侵害されたとしても、身体的に感じる安心を望むというものだ。それは自由の尊重という理性的・精神的な理屈ではなく、自らの身体レベルでの体感不安の問題としてセキュリティが考えられているということだろう*2
 さらにそうした監視カメラの設置に反対しない人は、監視カメラによって自分が「犯人である」と誤って同定される危険性はさほど考慮にいれていない。誰か他の人が捕まることがあるかもしれないが、自分が犯人として捕まる可能性は無い、ということである*3。ここに他者に対する共感にもとづく社会的なつながりが薄れてきており、その代替として技術による監視や企業からのセキュリティサービスが求められているのである。事実、「防犯」という掛け声のもとに防犯ブザーを子供に持たせたり、登下校時の同伴警備をしたりというセキュリティ・ビジネスは右肩上がりの産業となっている。
 以上、監視カメラを具体的な例として述べてきたが、さらに根本的に考えて、セキュリティが問題になるのは、「たまたま犯罪に巻き込まれた」「ある前提条件において合理的選択を行ったが、その前提条件が破綻してしまった*4 」など社会の専門分化により相互不透明なリスク社会化が進んだためである*5。このことを具体化すると現代社会が高度な技術に基盤をおいて成り立っている以上、技術のしくみは分からないがその恩恵をうけて生活をしていたり、また技術の専門家だがその技術が社会的にどう使われるかについては素人であったり、社会の専門化は、ある地点から社会全体を見たときの見通しやすさをどんどん低下させてしまっている。そして一度専門知によって生み出された財がリスクという負の財になっており、相互に不透明な中でそうしたリスクを最終的には個人で引き受けなければならないことが、セキュリティを求めさせる原因となっているという構図がある。
 そのようなリスク社会化にともなって上昇するセキュリティに対するアプローチには、人々の主観的不安を政治的に利用するような監視技術の設置、法律の厳罰化*6、警察力の強化*7というハードな物理的手段がまず考えられる。実際に人々の不安を煽っておいて、それに対する対処を提示することは政治的な手段として効力をもっているし、逆に政治的に何かを為し遂げるためにまず不安に訴えるということが行われている*8。しかしながら、監視カメラなどの技術を設置することは、監視主体となる国家や企業による恣意的な利用を社会がコントロールできない可能性があり、それ自体がリスクとなってしまう。序章で述べたように、絶対的な安心が不可能である以上、技術によるセキュリティは自らを駆動要因として上昇していくのである。
 したがって別のオルタナティブアプローチを考える必要が出てきて、その有効なオルタナティブソーシャル・キャピタルのような相互信頼・規範にもとづく人々のネットワークの構築であるだろう*9。少し具体化すると、それは問題を地域社会のような社会ネットワークの中で議論しつつ解決する方法であり、そこをどう実行可能にするかが緊急の課題として問われている*10。そのためにもまず、セキュリティというムードで語られやすい問題を論理的に冷静に記述する必要がある。

2 リスク社会化にともなうセキュリティの上昇

 そもそもセキュリティが社会的な価値を帯びて上昇する理由について、「リスク」「流動化」という概念から考えてみる。
 まずアンソニー・キデンズは近代化にそってリスクに関して以下のように述べている。

 モダニティは本質的にグローバル化していくものであり、グローバル化のもたらす不安定な帰結は、モダニティの示す再帰性が循環的なものであることと相まって、リスクと偶然性がいまだかつてない特質を呈するような事象世界を形づくっていく。(Giddens 1993=1999: 219)

 つまりグローバル化は近代化の中に内包されているものであり、近代化にともなって社会は再帰的に不安定化していき、リスクが重要な概念として浮上してくるということだ。近代の再帰的な帰結としてリスクがうまれ、再帰的に近代を形作っているといえるだろう。
 そしてリスクに焦点をあて近代社会を考察した社会学者にウルリッヒ・ベックがいる。近代の概念としてリスクを取り上げ、以下のようにベックは述べる。

 リスクの概念は近代の概念です。それは、決定ということを前提とし、文明上の決定の予見できない結果を、予見可能、制御可能なものにするよう試みることなのです。(Beck 2002=2003: 27)

 ベックは近代社会を、産業社会から産業社会の帰結としてのリスク社会への移行とみる。そのように前期近代社会である産業社会から後期近代社会であるリスク社会への移行と見ると、同様の主張はジグムント・バウマンにも見られる。
 社会の流動化はバウマンが現代社会を論じる際に用いるキーワードであり、バウマンは重量資本主義から軽量資本主義へ近代の進化とともに移行したと述べる。あわせて集合的におこなう生産よりも、個人的におこなう消費の方へ重点を移すことに見られるように、流動化した近代では個人が焦点になってくる(Bauman 2000=2001a: 第2章)。そして流動化した近代でおこっている安全の問題については、以下のように述べる。

 源がどこであろうが、蓄積された不安の蒸気は排出口をもとめる。また、不確実性,不安定性の源に達するための入り口は閉ざされていたり、到達できないため、すべての圧力は別の箇所、身体、家庭、環境の安全という、極端に薄い弁のほうへ移動する。結果的に「安全の問題」には許容範囲をこえた不安と切実な希望が満載されることになる。(Bauman 2000=2001a: 234)

 バウマンは現代社会では流動性の増加とともに、社会の不安定性、不確実性が増加し、その源がはっきりわからないことがさらに不安を掻き立てると述べている。
 バウマンの議論を敷衍し、いわゆる経済的生産要素を具体例として考えると、生産要素の乖離、すなわち土地、労働力、資本のモビリティが情報化やグローバル化によって乖離する現象が見られる*11 。そのように流動化した社会で個人をいう単位に比重が移る一方で、蓋然性も増加するため、ある個人が誰と知り合いになるかなどは確率の問題となる。そして比較的共有できる価値を個人間で持つことが出来る可能性も低くなる*12。インターネットを例にとれば、インターネットの出現は個人をエンパワーメントさせる可能性も開き、それなくしては知り合えなかったような人とも知り合える一方、同じ趣味をもつグループでしか交流しないようないわゆる社会の蛸壺化も促進してしまう。
 以上、大雑把にのべてきたことから、「社会の流動化」は個人にかかる比重を大きくさせ、その一方「リスク社会化」にともなう「リスクの個人化」は不安の原因となるものである。そこに個人の価値のプライオリティとしてセキュリティという価値が浮上することになる。

*1:名前、住所、年齢、遺伝子情報、保険など各種の個人情報がデータベース上で一箇所にまとめられ結合されると、本人の与り知らないところで人格が形成される。それが管理の対象になる危険性が主張されている。

*2:セキュリティに限らず、現代社会では身体的な快をもとめ、苦を出来るかぎり縮小させる傾向は多くの論者に指摘されている(藤田 1995; 東2001; 森岡 2003など)。

*3:斎藤貴男は、イラク人質事件を例に、「弱者」を発見し「多数者」で抑圧・差別することから得る安心感を「癒し」としての差別と呼んでいる。自分がその立場になるかもしれないという想像力の欠如に見られるように、自分が安心するためであれば思想信条の自由を放棄してまで権力やテクノロジーに依存する様子を「安心」のファシズムと呼んでいる(斎藤2004)。そのような問題意識には共感できるところがあるが、ただし権力が市民を支配する手段としてのテクノロジーという彼の基本的認識には異議がある。彼が主に依拠するエーリッヒ・フロムなどのフランクフルト学派の批判理論が現在の情報技術の中でどこまで妥当するのか改めて考察が必要であろう。個人の私的領域を公領域から守るという図式そのものが情報テクノロジーの進展とともに成立しにくくなってはいないだろうか。この領域の流動化に関してはバウマンが問題にしている(Bauman 2000=2001a)。

*4:例えばチェルノブイリ原子力発電所の爆発は、ある専門分野での知識に限っていえば「安全」であったものでも、そうした専門知識が想定していない、計算での前提条件に入っていなかった事態が生じると「安全」でないことを示した。また最近問題になっているアスベストという物質も、導入当時の技術水準・計算基準からすれば合理的な選択であったが、前提条件が変わってしまったがために、現在ではリスクとなっている。

*5: ウルリッヒ・ベックは、リスク社会化について、科学が生み出した問題を科学が対処せねばならない「自己内省的科学化」と述べている(Beck 1986=1998)。

*6:いわゆる「凶悪な少年犯罪」「少年の凶行」が起こるたびに法の厳罰化が叫ばれることは周知のとおり。いわゆる「凶悪な少年犯罪」「少年の凶行」が起こるたびに法の厳罰化が叫ばれることは周知のとおり。

*7:毛利嘉孝によれば、近代的な警察的管理のテクノロジーが、空間操作、都市景観の管理にとって重要な役割を果たした。そして安全性の専制とは警察的管理というテクノロジーの無制限の拡張である(毛利 1999)。

*8:不安の政治的利用とポピュリズムは密接な関係があり、現実の政治でも行われている。

*9:ここではソーシャル・キャピタルの定義をパットナムに基づき「信頼・規範・ネットワーク」とした。ソーシャル・キャピタルについて詳しくは第2章で述べる。

*10:ベックはリスク社会という後期近代社会の問題に対処するには、反近代という近代の外を考えるのではなく、近代の延長・徹底において科学自身によるリスク処理のみならず医療や企業、市民運動といった既存の行政組織以外の「サブ政治」による解決を説いている(Beck 1986=1998)。

*11:例えば一国経済、および東南アジア経済から一国の年間予算を上回る量の資本が数日の間に急に引き上げられたことでアジア金融危機が引き起こされ、そして危機がロシアや南米といった遠く離れた地域経済に波及したことは記憶に新しい。

*12:日本国民に多くが中流だと認識していた中流意識に疑問を呈し、階層分化が顕在化した中流崩壊論争もこの共通価値の崩壊の例だと考えられる。