転職、格差、逆説

先の卒業記念会で、少し驚いたことは知ってる先輩のうち、結構な数の人が転職しているということ。最初の会社に3年前後いて次の会社に、つまり同業他社や別業界に移った人が結構いた。

転職の理由は人それぞれなんだろうけど、時代とか社会構造要因が変わったんだなと改めて感じました。

新卒での就職も90年代後半くらいまでは国家官僚・大企業優位だったし、00年代前半は外資系優位、そして00年代後半にさしかかった今ではすごく行き先が多様化したなという印象。

今では就職先はどこが優位というよりも多様化してフラットで、様々な選択肢があるようだ。外資系に行く人、旧財閥系大企業にいく人、官僚(公務員)になる人、ベンチャー企業に行く人、ヘッジファンドベンチャーキャピタルにいく人、起業する人、実際に自分の周りを見渡しても本当に多様です。


ここであえて「格差」という強い言葉を使うなら、業種間格差や企業間格差から、業種内格差、企業内格差という時代に移ったのではないだろうか。少し飛躍するが経済構造のベースとなる税制でも、今では世代間格差以上に世代内格差が問題になっていると思う。

そこには当然、企業という大いなる存在にぶらさがる男・にぶらさがる女・にぶらさがる子供という大いなる存在に属することが合理的な高度経済成長モデル(その象徴である専業主婦率が一番高かったのは75年)から、自分で目標を決めなければいけないムービング・ターゲットの時代への移り変わりがある。

その流れを一言でいえば「個人化」ということなのだろうが、それはどこに生まれるかという偶有性によってリスク処理能力に差がでてしまい、その弱者にリスクが押し寄せる「リスクの個人化」でもある。

幸せになれるとがむしゃらにがんばった高度経済成長を経て、ゼロ成長の今、幸せな時代になったのだろうか。つまり短期的な成功と長期的な成功は結びついているのか。

端的に今ではどこに生まれるかという偶有性によって決定されるという不自由がある。では仮にお金持ちの家に生まれ教育をうけ決定能力が高いひとは自由なのかというと、自分で決定できる以上に選択肢が広がりすぎたゆえに、選択できず蓋然性に身をさらすというさらなる不自由がある。

そうした中で合理性を追求すればするほど、計算可能なリスクのみならず、計算不能な領域(不確実性)の存在を認識せざるをえないため、退却するのが合理的だという逆説。そのような個人の行動は、年金問題少子化に見るように、全体として不合理である。

そんな逆説的な中でも生きるにはどうすればよいのだろうか。