機会平等

この正月は1人になって色々考える時間があったので、思うところを書こうとおもいます。

まずは機会平等ということについて。平等には結果の平等と、機会(チャンス)の平等があると思います。本来あるべき平等とは結果の平等ではなく、機会平等であるべきです。みんなゴールする時に一緒にゴールするんだったら、途中歩いていても構いません。しかしながら、機会の平等、スタート位置が違うなら、その勝負は不公平なものとなります。

しかし、実際にはスタート時点から差があることが多くて、それが分からないから勝者が勝ったのは実力で勝ったと見られることが多い。たとえば、大学受験。大学受験はいっけんみんながヨーイドン!で勝負しているように見られる。しかしながら実際には東京大学にかよう生徒の親の年収が他大よりも高いことからあきらかなように、スタート時点が違う。親の年収が高くて小さい頃からしっかり塾等で教育を受けてきた都市部の生徒と、親の年収が低くて大して教育をうけられない地方の生徒とでは、最初からスタート地点が違う。たまたま地方に生まれたというただそれだけの理由で人の何倍も努力しなければ同じゴールに立てないのだ。でもそういった違いは、建前では機会平等の大学受験を通して正当化される。いい大学に行けなかったのは自分が努力しなかったからだ、と大学受験を通じて正当化されるのだ。

話は少し変わるが、あるTVで高校生の就職状況を放映していた。だが、その放送から衝撃を受けた。高校生の就職状況があまりに困難であり、悪いからである。そして何よりも衝撃を受けたのは就職試験さえ受けれない生徒がいたことである。チャンスさえ与えられないという惨さを目の当たりにした。就職するにしても、「本当は大学や専門学校に行きたかったのだが、家計が苦しいから」という理由で就職を已む無くしてする生徒も多くいた。重要なことは人の人生が家計や環境といったその人のどうしようもないことで、その人の人生が決まってしまうことである。たまたまそういった環境にうまれたがために、余儀なくされる人もいるということである。

私はたまたま大学という学ぶに適した環境で生活が出来ている。その背後には能力がありながら、家計の事情で学べなかった人もいたことは忘れてはならないと思う。そして出来る人が社会的な格差、経済的な格差と戦っていく必要があるだろう。そういった格差と闘う際に学問は無力かもしれない。しかし、問題を認識する際には学問が有用となってくる。問題解決の第一歩がその問題認識から始まるのである。

思えば、私の出身地方からは有名大学に入学する人はほとんどいない。私のいたクラスはその地方の優秀な生徒が集まるクラスだったが、多くは無名大学・短大に進学する。優秀なクラスでそうであるから、普通は高校卒業と同時に地元に就職する。当然のことながら、賃金は安く、その子供にも立派な教育をうけさせることが難しいと思う。そうして子供も地元で就職する。以下同じサイクルでずっとその地方にいるということとなる。

公立高校の学習内容削減は都市部の私立高校との格差をますます大きくするだろう。しかし誰かが、上記のサイクルを打ち破らなければならない。そして解消に努める必要があるだろう。私の1人の力ではそういったサイクルが変わらないかもしれない。それでもたまたま上記のサイクルから脱出できた以上、微力ながら努力をしよう。少なくとも、今まともに学問が出来る環境にあることを感謝する気持ちは忘れないでおこうと思う。