セキュリティの考察―「三国人発言」を事例に―

以下は2004/7/1に書いたものです。相当に荒い分析ですが、大枠はいまだに有効と考えるので載せます。
      

0 はじめに
 石原都知事の「三国人」発言を事例にセキュリティについて考えてみる。(まだセキュリティについて頭の中で煮詰まっていないので、問題の洗い出しと概念整理を念頭に。)
 三国人発言とは、2000年4月9日陸上自衛隊練馬駐屯地創隊記念式典において、石原慎太郎東京都知事(以下、石原知事)が挨拶のなかで述べた発言である。以下、発言を載せると、
 
 「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな騒擾事件すらですね、想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを申しておきます。」


という発言である。本稿で扱うのは、「三国人」の詳しい内容・歴史的含意や石原知事の政治的意図、およびメディアによる発言の使い方ではなく、三国人発言にたいして支持率が6割という社会受容の仕方である。以下、治安(セキュリティ)に対する要望が高支持の理由のひとつと考え、「なぜ安全がかくも重視される価値となったのか」を分析する。


1 社会の流動化について
 セキュリティにたいする要望が高い背景に社会の流動化が考えられる。流動化には共有価値の崩壊、「大きな物語」の消滅や「虚構の時代」の終焉といった言明により表されるが、ここでは情報化を挙げたい。 
 情報には、様々なレベルがあるが、本稿では意思決定・判断の根拠となるレベルと知覚の対象となる情報のレベルを扱う。そしてリスク・不確実性を上記の情報概念で対応させ説明すると、リスクを確率変数として計算可能なものとすればリスクは前者に相当し、漠然とした不安といった不確実性は知覚の対象となり後者に相当する。
 ここまでを確認した上で「安心」と「信頼」について考察する。山岸(1998)『信頼の構造』(東京大学出版会)では、区別なく使われる傾向のある、「安心」と「信頼」を区別し「安定した社会的不確実性の低い状態では安心が提供されるが、信頼は生まれにくい。これに対して社会的不確実性の高い状態では安心が提供されていないため、信頼が必要とされる。」と述べている。つまり情報化の結果、不確実性が増した社会ではリスクを引き受けた上で、行動できる人とそうでない人との間にリスク処理能力という差が顕在化する。また社会システム論では安心社会とは合意を前提とした社会であるが、信頼社会とは二重の偶有性を乗り越えるため信頼にもとづくコミュニケーションが出来る社会である。
  次に安心と信頼からセキュリティについて考える。


2 セキュリティについて
 ここでセキュリティを「信頼によるセキュリティ」と「技術−権力によるセキュリティ」に分けて説明したい。「信頼によるセキュリティ」とは信頼とそれに基づくネットワーク(ソーシャルキャピタル)がセキュリティとして機能する状態を指し、「監視(技術−権力)によるセキュリティ」とは監視カメラに代表される環境管理型権力につながるセキュリティである。
 そこで、今日の社会を見てみると前者の機能が低下している状況、つまり信頼に基づく行為が成立し続ける状況を社会統合とするなら、社会統合が失われてきた状況だといえる。そうした連帯が失われた状態でのセキュリティとは、監視カメラで怪しい人物を「発見」し、排除してくれるというセキュリティか、別の社会統合原理を持ち出すかである。監視カメラによるセキュリティでは、安全だと感じるかもしれないが、山岸の言うように不確実性の高い社会では安心感は得られない。つまりセキュリティにたいする満足感は得られない。そこで別の統合原理で信頼の減少を一時的にせよ補うことになる。
 そして別の統合原理としてナショナルな言説にすがるものが例として挙げられる。小熊・上野(2003)『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)ではつくる会の運動を、行動の規範が存在しないことや価値観のゆらぎにともなう不安を癒す(安心感を得る)ための都市型ポピュリズムと分析した。つまり社会の流動性増加(とりわけ都市部で)にたいしてうまく対応できず、不安を感じる人たちが「大きな物語」をつくりそれにすがるものだ。


3 まとめと今後の問題
 ここまで見てきた中で石原知事の三国人発言が高い支持をえたことを分析する。まず権力が怪しい人物を「発見」し排除してくれる、つまり「三国人」が具体的に何を指すにせよ「三国人」というカテゴリーによって怪しいと同定され排除される人が形成・「発見」される、という環境管理型権力につながるセキュリティが1つある。また都市という流動性の高い社会の1部分において、石原慎太郎という擬似的な「強い(とみなされる)マッチョ」「大きな物語」に同化することで不安を癒される都市型ポピュリズムがあったのではないだろうか。
 本稿での分析は「なぜ安心のために自由を犠牲にしても権力にすがるのか」という問いに一般化できる。一方で、信頼によるセキュリティから排除される人(ソーシャルキャピタルから排除される人)にとっては監視によるセキュリティに向かわざるを得ない状況もあるだろう。それは今後、「信頼」概念を検討するに際し、頭においておくべき問題である。