近代の観察メモ2


前回に引き続き、ニクラス・ルーマン『近代の観察』のメモです。2005/1/19に書いたものです。

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)



『近代の観察』 2章 ヨーロッパの合理性                


・ヨーロッパの合理性の歴史は、合理性連続体の解体の歴史として記述できる。かつてはこの連続体が、世界の中にいる観察者を世界へと結び付けていた。観察者が思考する存在であれ、行為する存在であれ、事物の総体および運動の終点の総体が世界の中で生じることを支えるという話になる。

・旧来の学説によれば存在のみならず自然のうちにも、ある種の構成要素が含まれている。合理性は、この構成要素へと帰属させられたのである。容易に見て取れるように、これは全体社会の記述でもある。

・このような秩序づけは、中世後期の唯名論においてすでに解体しはじめていたように思われる。全体社会の構造的複雑性が増大し、また印刷によって一貫性への圧力が強まることによって、記述に関する不一致が、真理をめぐる戦争が生じる。
十七世紀以来、(批判的な問題意識のもとで)『存在論』について語られるようになった。
当初は思考と存在それぞれに存在論が割り振られ、両者は並行して進んでいった。十八世紀の理性信仰は、すでに差異に基づいていたのである。啓蒙は自己が相対するものすべてを非合理化する。合理性と享楽が相対している。さらにいまや合理性は高性能ではあるが、部分的現象を包括するにすぎない。すなわちこの合理性は、全体社会の機能システムを方向づけるにすぎないのである。そして最後にはさまざまな合理性の類型が―例えば目的合理性と価値合理性が―確立されることになる。

・十九世紀以来、区別によって作業を進めることが次第に普通になってきた。しかしそこでは、区別そのものの統一性についての問いが立てられることはなかった。話者は物語のなかには登場しないし、物理学者は物理学的にはまったく登場してこない―観察者としても、行為者としてもである。(さまざまな議論のなかで)無数の区別が明示されてきた。それらは分析の道具として用いられてきたわけだが、その際あからさまに(あるいは場所によって明かされたり隠されたりしつつ)一方の側が選び取られていた。その場合、合理性そのものが区別の構成要素となりうる。当然その反対派非合理的なものだということにならざるをえない。

・合理性を分類する作業は一面性を免れず、そのつど用いられている区別の統一性とは何なのかとの問いは放棄される。これは近代社会が自己の統一性を反省する能力を持たないということを反映しているのではないか。それはおそらく、機能に定位した分化形式のためであろう。この形式は、全体社会の中で全体社会を記述する場所をもはや与えてくれないのである。だからこそきわめて一般的なかたちで『「何が」の問い』から『「いかにして」の問い』への移行が必要になるだろう。いずれにせよ、社会的再帰性・他者への移入・他者の反応様式の考慮が行為に関する決定のなかへと組み入れられるにつれて、理性の観念は掘り崩されていく。

・では今では観察者は、引き裂かれたこの世界のどこにいるのか。記述を行なう者は、何かを区別し指し示すために区別を用いるものはどこにいるのか。
一つの可能性として外世界的な主体を指し示すことが考えられる。もうひとつの可能性として、観察者の問題を無視することがある。この見解においては、世界があらゆる観察者にとって同一であり、かつ世界は規定されうるということが前提とされている。規定されうる以上さまざまな観察者にとってそれぞれ別の世界であり、同一の世界であるなら規定されえない、というようには考えられていない。

・観察者を構成しようとするポスト存在論的な試みの中で最も重要なものを、おそらく直接性=無媒介性の哲学として記述できるだろう。直接的な記号理解によって、他の記号を無限に参照し続けることからの一時的な開放が可能になると主張されるわけである。しかしこう問うて見ることもできるはずである。直接性=無媒介性そのものも、常に直接性/間接性という区別という区別によって媒介されているのではないか。さもなければ、およそ直接的なものが観察(体験、理解)されることなどありえないのではないか、と。

・さらに別の可能性もある。それはすなわち『複数性』を受け入れるということである。それによって主体と客体の区別の脱構築に着手しつつ、なおかつ脱構築を回避することができる。おのおのの主体は、それぞれ独自のものの見方、独自の世界観、独自の解釈をもつとされる。同様に近年の認識論も、もはや回避できない洞察に押されて『構成主義』を容認するようになっている。ただしここでも、リアリティをまったく考慮しないわけにもいかないだろうとの留保がつく。西洋合理主義は、その終局面においても自己の弱点をほとんど明らかにしえないのである。

・これらがすべて疑わしくなった後で最後になおも登場してこれるのは、「観察者は観察されない」という発想だろう。観察者は観察しようとする対象を指し示さねばならない。つまり対象を『マークされない空間』に留まる他のすべてのものから区別しなければならないのである。言い換えれば、観察者が観察できるのは、ただ『マークされない空間』のほうからだけなのである。そこで観察者は自分が観察するものを他のすべてのものから、したがって自分自身からも区別する。

・これは少なくとも、観察が二値論理のみを用いているかぎり妥当する。というのは観察者の用いる論理値の両方ともが、次の点ですでに破産してしまうからである。観察者はそれらの論理値を用いて、区別の一方の側かあるいは他方の側を指し示す。ところが区別を指し示すことそのものは、ましてや指し示しにおいて用いられている区別を指し示すことは、論理的可能性を持たないのである。
区別が区別としていかに利用されているのかを、あるいは観察者が観察者として、区別の他方の側ではなく一方の側を指し示すのはいかにしてなのかを観察し記述しようとするなら、より複雑な構造をもつ論理的道具立てを必要とするはずである。そのような道具立ては現在のところ、少なくとも厳密に形式的な意味では用いることができないのである。

・とはいえ今日では問題を従来よりも精確に定式化することができる。歴史的に見れば、存在論的に記述されうる世界という伝統的な仮定と、ただ二つの値しかもたない論理的道具立てとの間に明確な対応を発見できる。そしてそこでは次のような全体社会が前提とされていた。その全体社会において世界および全体社会に関するさまざまな記述の間の差異はさほど大きくならず、異論の余地の無い立脚点から拘束力ある決定を下しうるものとされていた。しかし現在に至るまでに事態は別の可能性の方向へと展開してきている。ともかく今やわれわれが直面しているのは、観察の観察という可能性、セカンド・オーダーのサイバネティックスの可能性なのである。

・共通の世界に対して多くの視線が平行して向けられているという仮定を放棄するのであれば、何よりもまず、「ある行為が監察されている場合、そもそもこの行為は合理的に行為しうるのだろうか」と問わねばならなくなる。観察者の観察者にとっては、自身がとりうる反応の仕方にはおのずと制限が課せられているはずである。合理性は制度によってまたは交渉を通じて保障されるべき前提に依存しているということになる。しかしその前提固有の合理性(メタ合理性)はそれによって実現される合理性とは別のところに存している。

・さらにラディカルな問題が加わってくる。それは単に利害と目的の多様性にではなく、観察することの構造そのものに関わってくる。われわれが見ることができるのは、両方の側が特定されたある区別によって指し示されるものである。それに対して見ることが出来ないのは、区別することという文脈において、一方の側かあるいは他方の側として働くことなく、排除された第三項となるものである。観察者自身も常にこの排除された第三項である。観察者は、観察の寄食者なのである。

・これまでのところ、観察者が観察しえないものを観察することへのこの関心は、認識論へと結実して承認されるまでには至っていない。『相対主義』『歴史主義』などは、嘆かわしいものとしてのみ通用することになった。そしてまた『ポストモダン』な(本当は、モダンな)言説の多数性、脱構築主義、『何でもあり』は『悦ばしき科学』としてのみ生じてきたし、またみずからもそういうスタイルを取ったのだった。もうこう問うてもいい時期だろう。この種の現象がいつまでも逸脱として扱われ続けるとしたら、問題はむしろ従来の認識論の側に、あるいは論理的道具立ての側にあるのではないか、と。