第八回

第3章 セキュリティに対するソーシャル・キャピタル
1 監視技術のリスクと法の厳罰化の限界

 ここまで第1章でセキュリティが求められる社会的背景、第2章でソーシャル・キャピタルをめぐる議論を述べてきたが、両者の関係をここでまとめて整理しておく。なぜセキュリティに対してソーシャル・キャピタルをとりあげるのか、セキュリティにたいしてソーシャル・キャピタルが効果的な役割を果たすのかどうかを考えてみる。
まず今日の犯罪も第1章で述べたようにセキュリティの背景同様、蓋然性やリスクから考えることができるのではないか。つまり、因果的に「○○が原因で××という罪を犯した」というのであれば、○○という原因を除去すればよい。しかし確率的に「ムシャクシャしていて誰でもいいから刺したかった*1。」「人を殺す経験をしたかった*2。」というような犯罪が起こってしまう状況がリスク社会や流動化した社会では起こりえる。そして第1章で述べたように、リスクは個人で引き受けなければならない。
 そうした状況をうけて法の厳罰化や警察力の強化、監視カメラの導入といった手段がまず考えられるし、実際にそのような方向で政治は動いている。しかしデイビッド・ライアンが述べるように、

 問題は、一方において、最大限あるいは保障されたセキュリティという概念が単純に到達不可能なものであり、他方において、監視が過度に科学技術に依存することで不可能な問題が生じているということだ。(Lyon 2003=2004: 28)

 すなわちどんなに監視技術を強化したところで、完璧に犯罪を予防することは出来ない。
少し言い方を変えると、高度な技術によるセキュリティはその効果期待に応じたセキュリティレベルを実現することは実際には難しく、その効果期待と現実の効果とのギャップが再帰的に不安要因となる。すなわち技術だけでは安心に向けて人々を満足させることができず、逆に不安にさせることが監視技術の導入につながっていく。つまり絶対的な安心が不可能である以上、技術によるセキュリティは自らを駆動要因として上昇していくのである。したがって監視技術以外の手段がセキュリティの上昇に対しては求められる。
 また監視技術や法・警察力の強化という手段は、先ほど述べたような蓋然性に基づく犯罪よりも、多くの犯罪である因果関係がはっきりした犯罪のほうに効果をあげると思われる。法の厳罰化が役に立つのは因果関係のはっきりした「反社会的」な犯罪であり、蓋然性に基づく「脱社会的」な犯罪ではないからだ*3。これはどういうことかというと、ある個人がそれまで自分が形成してきた社会的つながりを破棄してまで罪を犯すという合理的選択ができるとすれば、その場合は反社会的な犯罪である。その対策とすれば、合理的に判断して罪を犯すことが割に合わなくなるように法を厳罰化したり、逮捕されやすくなるような監視技術を強化したりということが有効になる。つまり犯人が反社会的とはいえ社会を意識している場合には監視技術や法・警察力の強化は有効に作用するだろう。
 しかしながら、犯人が社会から降りてしまっている脱社会的な場合、つまり犯人に何かしらの社会的なつながりが無い場合や犯人へのコミュニケーションが届かない場合、罪を犯して厳しく罰せられるとしてもそれは大して犯人への威嚇作用とならない*4。こうした場合には、対策として非常に難しいのだが、何とか社会的なつながりを結ぶことが必要となる。程度問題として監視技術よりも、信頼・互酬性の規範・ネットワークといったソーシャル・キャピタルが有効となる。
 つまるところソーシャル・キャピタルがセキュリティに有効なメカニズムは犯罪に走ることが割に合わなくなるように人と人の間に信頼や互酬性やなにかしらのネットワークを構築することである。その際にネットワークは犯罪のためのネットワークのみならず、それ以外の目的で形成されたネットワークであったとしても治安目的に転用される。ソーシャル・キャピタルが蓄積されることで、協調行動が促され地域の公共財=安全を管理する上で効果的に働くのである。

2 オルタナティブとしてのソーシャル・キャピタル―信頼の観点から―

 このように監視技術や法の厳罰化という手段以外に何が出来るのかと考えるときに、ソーシャル・キャピタルがその代替案として考えられ、その論理については第1節の議論の通りである。だが、ここで「信頼」を一つのキーワードとして改めて考えてみる。つまりソーシャル・キャピタルの中で信頼は非常に重要な要素となるのだが、ソーシャル・キャピタルでの信頼以外に、「信頼」そのものの研究もあることから、「信頼」研究にもここで触れておく。
 まず社会心理学の分野において「安心」と「信頼」の区別を確認しておく。山岸俊男は区別なく使われる傾向のある、「安心」と「信頼」を区別している。安心とは「相手が自分を搾取する意図をもっていないという期待の中で,相手の自己利益の評価に根差した部分」を意味し,信頼とは「相手が自分を搾取する意図をもっていないという期待の中で,相手の人格や相手が自分に対してもつ感情についての評価にもとづく部分」(山岸 1998: 39)を意味する。この定義をもう少し言い換えると、「信頼は、社会的不確実性*5が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情を含めた意味での)人間性ゆえに、相手が自分に対してそんなひどいことはしないだろうと考えることである。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることである」(山岸1998: 40)
 ここまでの安心と信頼の議論をまとめると、「安定した社会的不確実性の低い状態では安心が提供されるが、信頼は生まれにくい。これに対して社会的不確実性の高い状態では安心が提供されていないため、信頼が必要とされる」(山岸1998: 50-51)のである。
 現代がどちらの段階にあるのか、つまり社会的不確実性が高いのか低いのかを判断するために情報化の視点から考察する。情報には様々なレベルがあるが、本研究ではリスクと不確実性のレベルを区別する(児島 1999)。リスクのレベルでいえば、意思決定の根拠としての情報となり、具体的には数値計算可能な確率変数のようなものである。一方で、不確実性のレベルでいえば知覚の対象となるような漠然とした体感不安やメディアによって不安をあおるような報道もこのレベルに入るだろう。両者のレベルを考慮しても情報化が進んでいると認識してよく、とりわけ後者のような情報化の進展の仕方は不確実性―山岸の言う相手の意図に対する情報不足―を高める。したがって不確実性が高い現代社会に必要なのは物理的な手段のみならず信頼である*6。そこにソーシャル・キャピタル論がセキュリティにたいして入り込む余地があるといえる。
 
 一方で、信頼については社会学での研究もある。ルーマンは「信頼とは、最も広い意味では、自分が抱いている諸々の(他者あるいは社会への)期待をあてにすることを意味するが、この意味での信頼は、社会生活の基本的な事実である」(Luhmann 1973=1990: 1)と述べる。信頼を介することで、人は世界の複雑性に対峙することができるのである。いわば複雑性の縮減としての信頼である。
 現在のように複雑性が高まっている社会では、例えば人は科学技術がこれまで通りうまく働くことを期待して過ごしている。もちろん可能性として本当にうまく働くかどうか分からないのだが、それを一つ一つ自分で確認するわけにはいかないから、うまく働くだろうという信頼で複雑性を縮減している。そしてその信頼は事実となって達成される。信頼して行動した結果、事実が生まれその事実は信頼を担保する。その意味で信頼は単に事実性に負っている。したがってうまく期待通りに技術が働かなかったなどという事実は信頼を不安に変えてしまう。そしてそういう不安という形をとることで信頼が生まれず、複雑性とそのまま対峙せねばならなくなるのだ。このように不安に陥ると複雑性を処理できず社会は機能しなくなる。再度社会が複雑性を処理するためには、信頼に基づいた行動を事実が担保することが必要となる。
 このように複雑性の高い社会では、複雑性を縮減するために信頼が重要となる。その際に重要となるのは信頼を担保する事実性である。このことを援用して、ソーシャル・キャピタルとの関係を述べれば、ソーシャル・キャピタルが蓄積されるのはやはり具体的な関係という事実の積み重ねであるといえる。つまり何かのために行動した結果、ソーシャル・キャピタルが蓄積され、ソーシャル・キャピタルが蓄積されることでますます何かのために行動するのである。このようにソーシャル・キャピタルが増殖していくことについては第2章で述べたとおりである。

 ここまで社会心理学における信頼と社会学における信頼について、山岸俊男二クラス・ルーマンを取り上げて述べてきたのだが、両者の相違点についても少し述べておこう。山岸はルーマンにおける信頼概念を情報処理の単純化カニズムである「認知的けち」だと述べており、「信頼は情報処理の単純化によってもたらされるのではなく、逆に、より複雑な情報処理によってもたらされる」(山岸 1998: 34)という立場を取っている。ただルーマンの社会システム論が個人の行為ではなくコミュニケーションからなるシステムであることを考えると、ルーマンの信頼概念は山岸が解釈するような「個人の認知的けち」というよりも、社会における複雑性縮減のメカニズムであるといえる。逆に、山岸のいう信頼が個人の複雑な情報処理であるというのは、ルーマンの社会システム論における心的システムの作動にあたる。心的システムの機能は環境に対して複雑性を縮減するものであるが、そのことと心的システムそのものが単純であるということは別のことである。心的システムそのものは山岸がいうように十分複雑な情報処理を行っている。したがって先ほど述べたような山岸のルーマン解釈は社会システムと心的システムのレベルを混同したものであり、レベルを分けて考えれば山岸の言うような対立する信頼概念解釈とはいえないだろう。つまり相違点は山岸のいうような「認知的けち」という点にあるのではなく、ルーマンのいう社会システムのレベルに注目するのか、心的システムのレベルに対応するのかという違いであろう。
 まとめるとこれまで述べてきたことは、社会心理学でも社会学でも、複雑性を縮減する信頼は、複雑性の高い社会でうまくやっていくためには重要なものであることが理解できた。このことから信頼を重要な構成要素とするソーシャル・キャピタル流動性の高まりやリスク社会化にともなうセキュリティの上昇に対して重要となるのである。

*1:少年犯罪が「凶悪化」したと認識される原因は、しばしば報道でなされるズームアップ効果(現実の一部分のズームアップ)である。そしてズームアップ効果が起こるのは、この手の因果関係をはっきりと認められない犯罪が起こった時である。

*2:2000年6月17歳の当時高校生が主婦を殺害。「人を殺すことはどういうことなのか経験しなければわからないので自分には必要だった。悪いということはわかっていた。」と供述。

*3:「反社会的」「脱社会的」という用語は宮台真司による(宮台・藤井 2001)。

*4:しばしば報道が大きな影響を与えるのは、脱社会的な犯罪の方である。件数そのものは少ないが、漠然とした不安感を掻き立てることで、治安悪化意識を高める結果となる。だがそれに対して取られる手段は法の厳罰化・警察力の強化であるが、そうした感情的な議論に基づくアプローチが有効でないことは、ここまでの議論で繰り返し述べたとおりである。

*5:山岸は社会的不確実性を「相手の意図についての情報が必要とされながら、その情報が不足している状態を社会的不確実性の高い状態」(山岸 1998: 14)と定義している。

*6:宮垣元もNPOマネジメントの比較を通じて、情報こそが信頼を醸成する上で決定的に重要だと述べる(宮垣2003)。