第五回

3 リスク社会化における第三セクターの役割

 以上で述べてきたことを引き継ぐかたちで、「リスクの個人化」ということからソーシャル・キャピタルに基づいた非営利セクターを中心に第三セクター*1の必要性を考えてみる。
 まず、リスクは個人の「決定」という概念と結びついたものと考えることができる。そして「決定」は「責任」という概念と結びついている。したがって「自己責任」とは「自己決定」に対する責任である。ベックの社会理論は個人化の議論も射程においていることから考えると「自己責任=自己決定」はリスクを個人で引き受ける「リスクの個人化」につながっていく。これはリスクをプールし分散化する年金など従来の社会保障の機能不全や、旧来の福祉国家の肥大への対抗軸として打ち出されてきたネオリベラリズム新自由主義*2に代表される「小さな政府論」とも時代を共有するものであるといえる。
 この小さな政府論はしばしば公共セクターの民営化の議論と平行して論じられる。従来のように公共領域を政・官が担当し、私的領域を民が担当するのではなく、公共領域も政・官が運営するよりも市場セクターのような民間に任せたほうが効率よく組織経営されるというものだ。これを労働の観点から述べると、政・官のような生産性の低い部門から民間という生産性の高い部門に労働力を移動させることが効率のより資源配分となる。ネオリベラリズムに基づく構造改革とはつまるところ市場を最大限に利用し、効率よく生産資源を配分することなのであり、政府は市場の働きをゆがめないよう市場のレフリーとして働くことが期待されている。
 ただそうした市場化の流れの中で、個人に目を向けるとどうであるか。市場では財が配分されるのであるが、負の財ともいえるリスクをも配分される。つまり市場で意思決定をするためには情報が必要だが、すべての情報を手に入れたうえで意思決定できるわけではなく、個人の合理性には限定がある。限定合理性の中で確率計算をし、行動することが市場では求められる。
 だが現実社会では個人がリスクを計算し合理的に行動できることには、かなり個人差があるのではないだろうか。そもそもリスクを計算するだけでも可能な人とそうでない人がいるのではないか。それは初期条件の違い、つまりリスク計算するだけの教育程度を受けられたかどうか―たとえば年収が高い父親と教育熱心な母親といった高学歴の両親のもとに生まれることができたかどうか―が重要になってくる。「がんばった人が報われる」だけでは初期条件の違いを「個人の努力」の名目のもとで封印してしまう。つまり「報われる」という結果だけでは、「たまたま生まれが良かった」という偶有性(Contingency)や、さらに言うと、どこに生まれるかという蓋然性(Probability)が覆い隠されてしまう。現代社会では「蓋然性」という概念が思いのほか重要になってきている。
 このように小さな政府と拡大された市場だけでは、蓋然性にもとづく生まれの違いや前提条件の違いに目を向けることができない。このことは重大な問題を引き起こすように思われる。元来リスクに対するにはリスクを集団でプールする必要があるが、年金といった政府が提供する社会保障は機能不全に陥っている。社会保障が機能するためには、政治学者の齋藤純一が述べるように、「誰もが皆同じような種類のリスクにほぼ等しく曝されているという想定」(齋藤 2001: 32)が必要である。しかしそれが成り立たない状況、すなわち社会が分断化、断層化されリスクが個人によって変わると想定されている場合には、それぞれのリスクに応じて市場から供給される個人向けの保険に入る方が合理的になる。そして集合的な社会保険には逆選択が起こる。
 この議論に示すように、小さな政府と拡大された市場というネオリベラリズムはますます個人化をすすめ、格差拡大などに見られるように「われわれ」という意識に基づく「社会」を縮小させるものである。サッチャーの言葉に見られるように、いわばネオリベラリズムの中では「社会」は存在しなくてもよいのである。しかし市場・政府という制度を機能させるには何よりも「社会」が必要なのである。それは「他者でありえたかもしれない」という偶有性に基づく共感があってこそ市場は機能する。「たまたま生まれが良い」という蓋然性で競争結果が左右される―所得再分配が機能せず、機会平等が達成されない―ならば、さらにその蓋然性による結果が努力の有無という普遍性で覆い隠されるならば、市場は財の効果的な配分装置というよりも、参加への希望格差(山田 2004)を生み出し、貧困を生み出す装置となる。さらに貧困層は「秩序の他者」という社会の安全にとってのリスクとなる(齋藤 2001: 39)。「われわれ」という意識が縮小し、社会が縮小した中では貧困は「準犯罪者」というレッテルと結びつくことは多くの論者に指摘されている(Bauman 1999; 渋谷 2003a, 2003b など)。そのような「秩序の他者」を生み出さないためにどうするのか考察することが重要となる。

 このように小さな政府では公共領域を十分カバーできず、拡大された市場でも上記のような問題が出てくるとすれば、公共領域を政府以外で担うときに市場ではなく、非営利セクターという民間セクターが必要となってくる(図2参照)。



図 2 公私領域と各セクターの配置

 このリスク社会における非営利セクターの必要性について社会学者の三上剛史が考察している。彼はルーマンの社会システム論をベースに、ギデンズやベックを参照しながら、システムの機能分化から発生するリスクとその回避について以下のように述べている。

   今のところこれ以外の新しい動きがまだ芽生えていないから、これら非営利セクターとボランタリー・アソシエーションで代表させておくが、リスク社会においてはこれらをリスク回避システムとして正しく社会内に位置づけることが肝要である。(中略)閉じたシステムの壁と開いたシステムの専横から生み出されるリスクに対しては、社会内のエコロジーと不知のエコロジー*3を所轄する機関として、リスク回避システムが準備されなければならないはずである。(三上 2003: 189)

 ここでは各システム間の専門分化から発生するリスクに対して、リスク回避手段として非営利セクターの必要性が主張されている。すなわちレスター・サラモンが言うように、非営利セクターの台頭は、市民のニーズをうまく政府がキャッチできなくなったことや、福祉国家の行き詰まりに代表されるように大きな政府が機能しなくなったことが一つの理由であり、もう一つの理由として開発や環境分野における経済的進歩の再検討がある(Salamon 1994=2001)。つまり小さな政府、拡大された市場では様々な「社会問題」に対処できなくなってきたのだ。
 非営利セクターは、具体的にはNPONGOという組織、ボランティアなどのネットワークから構成される。そうした非営利セクターでのボランティアには信頼が重要であり、NPONGOという組織はネットワーク組織をとるといわれる。そしてボランティアや他者とネットワークを形成するには「他者でありえたかもしれない」という偶有性に基づく共感が重要である。この偶有性に基づく共感が「われわれ」意識につながり社会を構成する。「ソーシャル(社会の)」という語が示すように、「社会関係」を具体的に蓄積したものがソーシャル・キャピタルと呼ばれるものに他ならない。そしてソーシャル・キャピタルの蓄積は、NPONGOという組織の形成や運営に役に立ったり、ボランティアという行為にフローとして発現したりするものである。さらにフローはキャピタルとして蓄積される。

 以上の議論で述べてきたことをまとめよう。社会の高度化にともなうリスク社会化やその派生物であるリスクの個人化に対するには、リスクを個人以外の形でプールする必要があるが福祉国家の行き詰まりやそれに対するネオリベラリズムの影響下での小さな政府だけでは十分とは言えない。さらにネオリベラリズムは社会を解体する。そうした状況で公共領域を担う民間セクターとしてNPONGOという第三セクターに期待が集まっており、それらの第三セクターでは、他のセクターに比べてとりわけ「社会関係」の「資本」であるソーシャル・キャピタルが重要な要素となってくるのである。
 
 第1章では、近年「セキュリティ」がなぜ社会的に重要視されているのかを情報化を背景としたグローバル化再帰的近代化によるリスク社会化といった大きな社会変動との関係において理論的なレベルで位置づけた。そしてネオリベラリズムとも軌を一にしたリスクの個人化に対して、第三セクターの必要性、及びそうした制度を支えるソーシャル・キャピタルが重要だと述べてきた。
それでは第2章でソーシャル・キャピタルに関して詳しく見ていこう。

*1:ここでいう第三セクターとは、いうまでもなくペストフの福祉トライアングルにあるような政府・市場以外の第三番目のセクターという意味である。

*2:ネオリベラリズム(新自由主義)は、政府による市場への干渉を出来るだけ排し、個人の自由と責任に基づいて市場原理を重視する立場である。政府が行ってきたことの民営化や政府による規制を出来るだけ緩和する方法で考える。しかし特定の経済思想というよりも、市場を重視する政策パッケージの総体に過ぎないという主張もある。

*3:三上は「エコロジー」という語を社会と自然の関係にとどまらず、社会内の諸システムの関係を指すものとして用いている。そして「不知のエコロジー」とは、各システムが「不知」と背中あわせであることからリスクが発生する状態を指している。詳しくは三上(2003)を参照。