今なら出せるかな

最近寝つきが悪い。悩みが顕在化したからだ。
その悩みは、自分自身はっきり認識していたわけでないのだが、ここにきてはっきりと分かるようになってきた。

それは自分が望むことと他人が望むこととの間にギャップが出てきたことだ。

来月から会社で働くことになっている。
その方向で進めば、経済的にも困らないし、物質的にも困らないだろう。そのうち結婚などして子供も出来る可能性が高い。そのように生きる自分は周りの人も、そして何より家族が望むものだと思う。人並み以上の生活ができ、他人はそんな自分を「幸せ」だと思うだろう。

だが経済的に満たされ、パートナーや子供がいる生活が、自分の中では満足することができるかどうか心もとない。人並みの生活をすることを「だから何なのか、何の意味があるのか」と感じてしまう。パートナーがいたとしても、それは必然や運命というより単なる偶然にすぎず、その偶然にコミットメントしているだけに思える。


やはり世の仕組み・動きを研究することが自分にとって最も満たされることのように思えてきた。それは会社での仕事が迫ってきて切実に感じるようになったから。会社で働く理由として経済的理由、実務への興味、オーバードクターなど大学院の状況を挙げてきたが、それは他人への説明というより自分を納得させ仕事に向かわせるためだったようだ。

ただ、その方向は経済的・物質的にも恵まれないだろうし、1人でいる可能性のほうが高い。家族も心配・迷惑をかける。だが自分1人なら満たされる。


つまり研究第一の生活を放棄すれば、人並み以上の生活ができるし、まわりにも心配をかけない。研究第一の生活を維持するなら、経済的・物質的なものは手に入らない以上に、まわりに迷惑と心配をかける。

単純に経済的・物質的なものに向かえて、そして獲得することで満足できるなら、どんなに楽だろう。経済的な豊かさが幸せにつながるという虚構を信じることが出来たなら。

自分の志向性を断念して、他のためにがんばろうと観念もできず、他を捨てて自分の志向性に走る覚悟も出来ず。自分を乖離させることで生きていけるのかもわからない。


といってもたまには、こんなどうしようもないことを考えつつも今まで生きてこれたから、これからもなんとかやっていけるはず。
このダブルバインドから一時的に抜け出すには、いつものように考え疲れするのを待つしかないようだ。

以上は今年の3月10日に書いたものです。今現在の精神状態はそれほど悪くないので、以上のようなことを出すことによる反応にも対応できるでと思います。


ただ今現在も基本的な思いは共通しています。週末になると気分が滅入りますし。

平日なら朝から晩まで仕事で、いろんなことをあまり考える余裕もないのですが、週末になると時間の余裕も出てきて、ふとわれにかえり「なぜいつもはあんなに躁状態なのか」と考え鬱っぽくなります。

角度を変えて具体的に説明します。平日は目の前のタスクを消化することに精一杯ですが、それに慣れると駆り立てられていることにすら気付かなくなります。また新聞を読んで細かい情報を収集することに没入していき、大きな構図が見えなくなったり、何のために新聞を読んでいるのかも分からなくなったりする。

ただ時間のある週末になると、そういう目先のことに追われている自分に気付き、イヤになってくる。
そしてそのような状態になったときは、一人でゆっくりとした時間を過ごすことで精神的な平衡を保っています。このことは一人でゆっくりとした時間を過ごすことで、上記の状態になるなら、むしろ状態を悪化させる行為に思われるかもしれない。人と一緒にいるほうが、良いのではないかと。

たしかに誰かと楽しく過ごしたとしたら、上で書いたようなことを忘れられる。実際、誰かと一緒にいることは好きです。でもそれは自分で考えるということに対して向き合うのを先送りしているのと同じです、自分にとっては。

常に誰かと一緒にいて楽しく過ごせるなら、冷静に考えることを忘れることもできる。でも、実際にはやはり自分一人の時間は出てくる。考えずに先送りすればするほど、冷静になったときの反動が大きくなります。そうであるなら、こまめに考えることに向き合い、徹底的に考える方がよいと思うのです。

考えることをやめれば、楽になるかもしれない。でもその時は自分にとって大切なものも失うことになる。だから精神的にしんどくても、考えることを続ける。


色々書きましたが、支離滅裂なので、格言で無理やり閉めます。
「幸福は、体のためには有益であるが、思考の力を育てるのは悲嘆である。(マルセル・プルースト)」