日常と非日常

実家に帰る途中で気がついたことがある。それは移動の途中で見た風景に懐かしさとともに、新鮮さを感じたことだ。

新幹線から見た、田んぼ、瓦屋根の家、山・・・、それらは東京で暮らしているうちに忘れていたものだった。田んぼも瓦屋根の家も山も、どれもかつては日常のものだったけど、今ではそれらは非日常のもの。今の日常は高層ビルや2バイ4住宅や車。そうしたものがすっかり自然だと思う自分になっていた。

そして移動し東京を離れてみると、むしろ東京のようなところの方が珍しく、田んぼや瓦屋根の家の方がずっと多く視界に入ってくることに気付く。


また、実家に帰ると旧友の情報を聞かされる。結婚していたり、地元の工業団地に勤めていたり、家業を継いでいたり、また若くして亡くなった人も。職業選択という点から見ると、東京よりもずっと自由度が少ない気がする。印象だが、地元の工業団地で働かざるをえなかった、家業を継がざるをえなかったのではないか。それほどかつて身近にいた人は、移動することなく同じ地域内で生きている。

移民研究が明らかにしたように、移動できる人は経済資本や文化資本社会関係資本、人的資本をある程度持っている・獲得した人である。(もちろん移動せざるを得ない弱者というケースもあるが)少なくとも地元の街を見ると、あまり景気が向上した影響を感じることは無かった。景気回復はまるでテレビの中での話。そうした環境の中での選択の結果、旧友は今の職業についているのではないか。


さらに実家で感じたことはマスメディアの影響が大きいということ。インターネットは東京で感じるほど「当たり前」ではないような感じがした。情報の多くをテレビから得ている印象。東京に住んでいるとネットという別の手段や実際に行って確認してみたりできるが、地方だとそうもいかないので、よりマスメディアの影響が大きいようだった。


以上書いてきたように、ある視点でものごとを見続けるとそれが自然のように思えてくるが、少し移動してみるとそれは自然でもなんでもなくなる。そんな当たり前のことに気付いて驚く自分に、一番驚いた。ずっと東京にいる間に、それほど感受性や想像力が低下していたのかと。久しぶりに実家に帰って、短い旅だったけど、多くの「気付き」がありました。