『ウェブ進化論』を読んで

だいたい読みおわりましたので、いくつか疑問点を。
おおよそ書いてあることについては確かに納得がいくし、その通りだと思うことが多い。
とりわけ本書のポイントでもあるが、グーグルのような会社がサイバースペースを司る・構築する工学的権力を持っていることはその通り。

ただ梅田氏(以下筆者)の言う総表現社会に関しては、いくつか疑問・懸念がある。

まず民主的手続きが公共的に善なる情報を担保するのかという問題がある。筆者によれば検索エンジンの進化とともに個人が発信した情報が届きやすくなるという。システム的な具体例としては、玉の情報には多くのリンクが張られることで検索結果の上位に来て、石の情報にはリンクが張られず検索結果の下位にくることで、無名の個人でも良い情報を発信すれば誰かに届くという構図がある。

しかしながら、検索エンジンが保障する玉とはリンクに表される参照の「数」によって担保されているだけで、質的に担保されるものではない。言い換えると、多くの人が良いと考える情報が、専門的に正しい情報であるとは限らない。ブログに限ったことではないが、分かりやすく多くの人に支持される情報が専門的に正しいとは限らない。したがって、例えば金融のような専門分野では、日銀という専門家が、民主的手続きで選ばれた国会議員を排して、金融政策を独占的に決定することになっている。

ここに民主的な手続きと専門性との相克という本質的な問題があるように思う。筆者は民主的手続きの方に楽観的だが、民主的手続きをどこまで拡大するかは慎重であるべきだと思う。確かにグーグルやリナックスプロジェクトのように専門家が集まって民主的手続きを取ればきわめて生産的になる可能性が高いが、いわゆる普通の人の集まりで同じように行くかは疑問がある。普通の人が集まって上手くいくときは、その普通の人の中に無名だが専門家並みの能力をもった人が潜んでいる時だと思う。


次に1つ目の疑問とも関連するが、総表現社会の帰結として、議論が一方に急激に振れる可能性があるということだ。玉の情報はリンクが多く張られることで検索エンジンの上位に来るということだが、たまたまリンクが多いがために検索結果の上位に来てさらにリンクが増えるという可能性もあり、その情報の自己強化作用の結果によっては、議論がある方向に自己強化されることにはならないだろうか。

具体例を挙げると、先の総選挙は実質的なインターネット選挙が解禁された選挙といってよいが、結果は小泉政権が圧勝した。ここには検索エンジンで小泉支持の議論にはリンクが多くついて検索結果の上位に来るが、小泉不支持の議論にはリンクがつかず検索結果の下位になり注目されないということがなかっただろうか。多くの場合は検索結果の上位しか見ないので、それを見た有権者が小泉支持を打ち出した可能性があるように思う。このように、総表現社会の帰結として議論が一方の極に急激にスイングする危惧がある。


最後に情報の普及に関する疑問である。筆者も挙げているように、検索というのは能動的な行為であり、テレビのように放っておいても情報が入ってくるというものではない。その結果として、自分の関心ある情報しか検索して見ないということにはならないか。その意味でも情報の自己強化作用があるように思う。さらにその帰結を考えると、自分の興味と同じくする小さいグループが乱立し、その中でしかコミュニケーションが成立しない可能性がある。

ちなみに情報の普及でいうと本を読むことも能動的な行為であるため、この『ウェブ進化論』そのものが、ITに興味のある人にしか読まれないという可能性がある。先の野球のWBCに見るように、多くの場合ナショナルレベルのイベントが盛り上がるのはテレビのような受動的メディアを通してであり、能動的メディアであるネットには良くもも悪くも小さいグループ化・個人化を進める作用が強いだろう。


以上が疑問である。まとめとしては、ネットの進化により今まで存在していなかった個人や少数に光があたるようになったことは確かであるが、その社会的帰結が良いものになるかについては懸念がある。またネット社会で民主的手続きが善い帰結をもたらすためには、より専門的能力が様々な分野の多くの人に求められるように思う。