カーニバル化する社会

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

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この本の基本的枠組みは「カーニバルとデータベースの共犯関係」であり、すなわち「自己目的的な「カーニバル」が現在において生じつつあること、他方でそうしたカーニバルを支えているのは、データベースへの問い合わせにあること」(p158)から現代社会を記述する。

たとえば、フリーターがやりたいこと「そのもの」を自己目的的に探し回る(カーニバル)、その一方で「やっぱダメかも」と自己像を冷静に考え(データベースへの問い合わせ)、「やりたいことはこれかもしれない」という躁状態に走る、といったカーニバルとデータベースの間を往復するというような調子。

本書でも引かれているG・H・ミードに代表されるシンボリック相互作用論では、「自我」を「主我(I/知る私)」と「客我(ME/知られる私)」に分けて、客我を知る主我という往復関係により「〜の/〜する私」というアイデンティティが形成される。そしてそのようなアイデンティティの郡を自我(SELF)という。

しかし本書の分析ではたとえば携帯依存(人間関係のデータベース化)の人における関係は関係「そのもの」であって、何かのための関係ではない。すなわち「客我(ME/知られる私)」があるのみであると述べられる。

このように本書では「カーニバルとデータベースの共犯関係」から記述していく。各種アンソニー・ギデンズウルリッヒ・ベックジークムント・バウマンなど社会学理論を援用した説明にはおおむね納得がいく。ただ「カーニバルとデータベースの共犯関係」という枠組みでは説明できない現象(反証事例)もあるはずで、そういった「明らかにされない/できないこと」も示してもらった方が「明らかにできたこと」が生きてくるのかなとは感じた。でも合理的なもの(本書ではデータベース)に回収されない非合理的なもの(本書ではカーニバル)を重んじるあたりは師匠の宮台氏の影響を感じました。

ちなみにこの本アマゾンではあまり評価されてなかった。おそらくその原因は各理論にたいして細かい説明がないので、理論を共有しない人にはわかりにくいということは考えられる。(あと年代差もあるのかな。)

あと最初に書店で手に取った時、データベースは東浩紀氏の議論を使うんだなとわかったんだが、カーニバルはバウマンの議論なんだね。てっきりミハイル・バフチンかなと。でもバウマンがバフチンを使ったのかな?