自分で決めていないこと

最近仕事中に思うことは、自分で決めていないことには最終的な責任を取る必要が無いということだ。

日々のなかでドキュメントの誤字脱字や、説明不足など自分で決められることについては自分で責任をとって謝るなどできる。自分の決定に対しては自分で責任をとる。

しかし自分がベストを尽くしたとしても、要求水準に及ばない時にも責任をとろうとすると精神的にキツクなる。一時期の自分が精神的にきつかったのも、このことが原因の一つ。ただ今では、自分のベストがプロジェクトの要求水準に満たなかったとしても、それは自分をプロジェクトにアサインした(入れた)人の責任だと考えている。自分のアサインを決めたひとに、最終的な責任を取ってもらえばよいのだと。

こう考えることでずいぶんと精神的に楽になった。しかしそれで仕事が楽しいかというと微妙なところで、人の業務を助けてくれるはずのコンピュータに、なぜ人の方が合わせなきゃいけないのかと思うことが多い。例えば「>」「}」という閉じ括弧、「;」というセミコロンがなかったらプログラムは動かないし、大文字と小文字間違えてもダメ。果ては、全角スペースを間違えて入れた日には発見するのに一苦労。

おかげで机の傍らにはギャバ(チョコレート)が常にある状況。そんな仕事をうまくいかせるために「仕事」と割り切ってドライに機械的に振舞うと楽だろうと思う。でもコンピュータに合わせるために機械的になることは、それこそ自分というパーソナルな部分を失わせる=その仕事をするのが誰でもよくなるということ。実際に機械的に仕事をしていると「この仕事って他の人でもOKだよな」なんて感じる。

機械的に振舞い仕事をすれば短期的に楽になるだろうが、長期的にはどうなるのか。自分という「らしさ」を持ち続けることで機械への疎外が起こり、自分という「らしさ」を失うことで機械からの疎外が起こる。

そんな状況で複雑な思いはあるが、今はプロジェクトで最終的にうまくいかなかったら、プロジェクトへのアサインを決めた人の責任だと思って仕事することで耐え忍ぶ。